『何故、お前はいつも笑わない』
『何故、お前は私を恨もうとしない』
『…憎いだろう』
『愛されて産まれたお前は』
『望まれず産み落ちた私より』
『ずっとずっと』
『幸福でなくてはならないのに』
『考えた事はないか』
『私さえ存在しなければ』
『お前は幸福だったのだ、と』
『…何故憎まない』
『私さえ存在しなければ良いと』
『私はお前の兄などではない』
『私の世界は虚無だ』
『お前に、憎まれる事さえない』
『永劫、この渇きは満たされぬままか。』
『私は、お前が憎いのだから』
エントランスから非常階段へ続く廊下を進み、行き止まりで無人を確認し首元からチェーンを引き抜いた。
「セントラルライン・オープン」
ただの壁にある小さな穴へ指輪を嵌め込めば、無機質な壁は急激に光を放ち始める。
現われたのは光で作られたローマ字表記のキーボードと、壁一面のディスプレイビジョンだ。
「ティアーズキャノンの一部セキュリティをリセットし、施設内稼働領域を組み替える」
『マスターリングを確認しました。風紀セキュリティ発動中、ステイタスをどうぞ』
「帝王院神威」
機械音声が僅かだけ沈黙し、コントロールパネルと化した壁一面に不気味な赤文字が浮かび上がる。
眼鏡を掛けた猫型ロボットのマークが点滅され、警告と言う赤文字が壁と言う壁を走り回った。
『エラー、マスターステイタスを非確認しました。只今よりティアーズキャノン全機能を停止し、』
「歩兵」
ぴたり、と。
狂った様に警報を鳴らしていた機械音声が断ち消える。警告の文字が消え、眼鏡を掛けた猫型ロボットのマークが点滅を止めた。
所詮二葉の悪戯だろう。ただの嫌がらせに近い二重ロックなど無意味だ。
「セントラルライン・オープン、これは頼みではない。ただの命令だ。…逆らう事は許さない」
『了解。声紋、網膜識別、共に99.8%一致。マスター「ルーク」を確認、全機能を委ねます』
壁一面に校舎建築図面が浮かび上がれば、視界を妨げる邪魔物に気づいた。
興味が失せた様にそれを外し、偽りの髪を掻き上げる。視界がクリアになると壁に浮かび上がったキーボードを指で弾いた。
「エリア34のエレベーターを14階で切り替える。始業式典後、講堂エリアは最上学部施設内に収納し、セキュリティコードを書き換えろ」
『了解。システム異常無し・・・100%、データを保存しました』
複数の足音が近付いてくるのに気づく。
「…セントラルライン・クローズ」
眼鏡を掛け直し指輪を仕舞うと、来た道を戻りながら偽りの黒髪で顔を隠した。
然程歩かずに数人の生徒達が近付いてくるのが見える。
「…って言うのはどお?」
「うわぁ、鬼畜だなぁ君ってさ!」
「ははは、全くだな」
「だって許せないじゃん、平凡の癖に白百合様を押し倒すなんて!」
「殴って縛り上げたんじゃなかったか?」
「ナイフで腹を刺したって聞いたぜ、俺は」
「山田何とか、だっけ?聞いた事ない名前だよね、今年の一年は舐めてる」
「眼鏡掛けたダッサイ奴だって………あれ、何アイツ」
十字路をエレベーターの方向へ曲がって行く雑音の視線が背中を貫いた。
「げっ」
「キモっ、今の明らかに貧乏人みたいな顔してなかった?!」
「背は高いのに何なのあれ、モップみたいな頭とあのダサい眼鏡っ!」
「ギャハハ、あんまデケェ声で言うなよ」
「万一Sクラスの奴だったらどうすんだ」
「死刑死刑!あんなキモいSクラスなんて有罪だって〜!」
ああ、煩わしい。
(人間の発てるノイズは耳障りだ)
(いっその事、息絶えてしまえば良い)
『知ってるにょ?』
人間は己より下位の他人を見下し、優越感に浸りながら生きているのだ。
(哀れな生き物)
『会長は神帝ってゆ〜んだって』
人間など消えてしまえば良い。
何も聞こえなくなれば何も考えなくなる。何も見えなくなれば何も思い出さなくなる。
毎日毎日退屈で、時折呼吸の方法さえ忘れてしまいそうになるのだから、全て忘却してしまえば良いのだ。
『ばいばい』
『カイちゃん美形だから』
『二度と会う事のない、』
『後で写メちょ〜だい?』
興味、と言うものは持続しない。
依存しなければ世界の全てに意味は無く、己の命すら価値はないのだ。
人間は繰り返し忘却する生き物だから。
『……………裸の王様。』
記憶など、すぐに消えていく。
(望もうと)
(望まずとも)
『カイちゃん』
「…」
何故、
『カイちゃん』
消エテ無クナラナイ。
何やら騒がしいな、と首を傾げた彼は愛しい人からのメールに返信しながら、何気なく騒ぎの元へ目を向けた。
「で、ですから来賓招待カードをお持ちにならない方をお通しする訳には…」
「あら、洒落臭い。しゃらくせぇったらないわねぇ」
「しゃ…」
「だから私は今日から此処に通う息子の晴舞台を見物に来ただけなのよぅ。それともなァに?息子の晴舞台を見ないで死ねって言うの?」
「で、ですから来賓招待カードを…」
「そんなの貰ってないわよ?それとも私だけ仲間外れにするつもりなのね?苛めだわ!」
ああ、愛しい人からのメールに返信しながら、彼は満面の笑みを浮かべた。
何故、自宅で昼メロを観ている筈の愛しい人が近年稀に見るお洒落をしてそこに居るのだろう。
「い、いえ。学生便覧の中に同梱している筈ですが…」
「入学案内のパンフレットだったらうちの子が大事に持ってるわよ。毎日毎日無愛想なお顔で読み更けてたもの!」
「は、はぁ…」
「怪しいモンじゃないんだもの、入れてくれたってイイじゃないよ。ほらっ、保険証!身分証明書になるわよね?」
「出来れば写真付きで…。いや、そもそも招待カードをお持ちにならない方をお通しする訳には…」
「タスポなら持ってないわよ!ふぇ、可愛い我が子の入学式くらい見たってイイじゃないよ…ぅ」
何処からどう見ても帝王院の制服を纏う女性がしくしく泣き真似れば、狼狽したらしい受付の青年が女性の肩を宥め始める。
ブチ。
「…何、人の女房に手を出しているか貴様ァ!!!」
携帯を胸元に仕舞い高く飛び上がった彼は受付の青年を蹴り退かし、可愛いらしくきょとりと首を傾げた女性の手を恭しく握り締めた。
「愛しいシエ、こんな狼の巣窟で何をしているんだ。襲われたら俺は心配の余り胃を壊してしまうぞ」
「あらん、しゅーちゃんこそ何をしてまする。先週から出張だったんじゃないの?」
「えっと、道に迷ったんだ」
「あら、そうなの?!良かったわねィ、運がイイわ。実は此処、帝王院高校って言うのよ!」
「そうか」
内緒話の様に声を潜める人に目を見開けば、妻は眉を寄せてしまう。
「なァに、ニヤニヤして卑らしい。ああ、可愛い我が子に会いたいのね!」
「そうだな。だがシエに逢えた事が嬉し、」
「ちょっとお兄さんっ、うちの主人もこう言ってるでしょ?純粋に我が子の晴舞台が見たいだけなの!」
「し、然し…」
蹴られたショックで震えている青年は、然し女性の傍らに立つ男、つまり蹴られた相手を認め沈黙した。
静かに目を細めただけで青年を黙らせた男は、帝王院には存在しないシークレットストライプのプリーツスカートを翻らせるコスプレ妻に僅かだけ見惚れ、己が羽織っていたジャケットを脱ぐ。
「シエ、可愛過ぎて目に毒だ。掛けていろ、パパは心配の余り目からレーザービームが出るかも知れない」
「折角シュンとお揃いのお洋服作って貰ったのに…」
「誰に」
「お隣の佐々木呉服屋の奥様に。帝王院に入学なんて凄いんですって、お祝いに」
「シエがお祝いに制服を作って貰ったのか。…可愛い」
どの角度から見ても女子高生にしか見えない妻はいつもとメイクが違う。いつもこのメイクだったら鼻血を吹いてしまうだろう。
「貧血請け合いだな…」
「しゅーちゃん、私シュンにお弁当作ってあげたのに、これじゃ渡せないわ」
「預けておけば良いだろう。折角二人出逢ったんだ。デートしよう、シエ」
「あらん、一度行ってみたかったランチバイキングのお店があるのよ」
「良かろう、パパはヘソクリを貢ぎます」
「きゃ!しゅーちゃん、大好きよ!」
イチャイチャイチャイチャ鬱陶しい二人を呆れ顔で眺めていた青年は、ぽいっと投げ渡された無駄に大きい包みを辛うじてキャッチし、腕を組む女子高生の睨みを浴びた。
「それをうちの子に渡してちょーだい。酷いわ、久し振りにイチ君に会えると期待してお洒落したのにっ、馬鹿!」
「シエ、浮気か」
「ぷはーっ。やってらんねぇぜィ!おぅっ、帰ェるぜしゅーちゃん!」
つん、と顎を突き上げてざかざか校門に去っていく背中を呆然と見送っていた彼は、我に還り声を荒げた。
「あのっ、お名前は?!」
「トシエよ。こっちは私の可愛いしゅーちゃん」
「いやいや、ご子息のお名前です!」
「しゅーちゃんのムスコにお名前あったかしら?」
「シエ、俺の下半身を熱烈に見つめないでくれないか。うっかりしたらどうするんだ、ランチバイキングの前に二度目のハネムーンだぞ」
手を繋いで仲良く振り向いた男女が昼間からとんでもない話を繰り広げているが、青年はそれ所ではなかった。
「じゃーね、お弁当お願いするわよ坊や!」
何処からどう見ても女子高生、または二十歳そこそこの女性が三十路間際の青年を子供扱いする。
帝王院の制服を模写した様な服にくるくる巻いた茶髪を揺らす人は、何処からどう見ても保護者に扮した不審者だと思ったのに。
そして、後から現われた男に見覚えがある気がしてならない。名前を聞けば思い出すと思うのに、同一人物ではないと頭が否定している。
「高等部外部生の遠野俊に手渡してくれ」
意気揚々と歩いていく女性から手を離した男が囁いた。
「何処かでお会いしませんでしたか…?」
「気の所為だな。記憶にない」
緩く細められた黒い瞳がサングラスで覆われてしまう。誰かに似ている、あの人に似ている、確信に近い想像は弾けた。
「……………『外部生』?
今、新入生ではなく外部生と、」
「しゅーちゃーーーん、置いていくわよーーー!!!」
問い掛けた言葉は掻き消され、サングラスを押し上げた男は興味が失せた様に青年から目を離す。
「宜しく頼む」
「あ…っ、お名前を!来賓者様のお名前を!」
くるりと茶髪が宙に舞った。
桜吹雪を背景に光に溢れた笑顔を滲ませ、
「トシエ!遠野俊江よ、坊や」
「遠野ヒデタカ。
…字が判らなければシューちゃんとでも書いておけば良い」
「二人合わせてタカ&トシよ!」
「シエ、可愛い」
去り行く背中は、容易に桜で掻き消された。
「帝王院って何処かで聞いた名前よねぇ、しゅーちゃん」
「字数が多い名前だ」
「ランチバイキングのパルメザンケーキが美味しいらしいのよぅ」
「今日の夜はすき焼きだったな、ゴクリ」
「あらん、うっかり昨日一人でお肉食べちゃったわ」
「シエ、可愛いぞ」
校門を潜り、改めて振り向いた人がきょとりと首を傾げた。
「それにしても帝王院って何処かで聞いた名前よねぇ、しゅーちゃん」
世間話の様な問い掛けは、サングラスを押し上げる男の小さな笑みに掻き消える。
「うちは普通の名字で良かったな」
「そーよねぇ、秀ちゃん。」
まるで白昼夢の様に。