『それは夜な夜な徘徊するんだ』
低い擦れた声音はまるで現つではないかの様に、音でありながら静寂を揺るがす事はなかった。
『救いの慟哭は絶望の足音と化し、嘆きは闇に呑まれる運命』
その語り部は音としてではなく、言わば魂の根核を震わせたのだ。さながら子守唄の様だと言った方が良いかも知れない。
『神を求めて狂った月の女神が、新月に。
女神を求めて嘆いた太陽神が、満月に。
魔力を掛けて、ただただ彷徨い続ける。
─────知っているか?』
その物語はいつも新月の夜。
光を失った闇一色の空を背景に、
『男の嫉妬は、…女よりも醜いんだ』
Canon Symphony-輪唱交響曲
第1番:深夜の徘徊
薄暗く埃臭いコンクリートの穴に潜り、煤けた階段を恐る恐る降りた先。
漸く突き当たったのか足を止めた前方の人影を認め、携帯の簡易ライトで足元を照らしていた太陽が溜息を零した。奇妙な沈黙もこのメンバーでは仕方ないだろうが、このメンバーだからこそ耐えられなかったのだ。
「行き止まり、じゃないですよね」
鼻で笑った零人がジャラジャラ煩わしい左手のアクセサリーを翳す。
「良く見ろ、上にセンサーがあるだろ。見た目はただの壁と同じ、フェイクゲートだ。普通こっち側からは開かない」
「あー、うん、そうでしょーね…」
「…利用方法に大分問題点がありそうですね」
「アレを通り抜けたら、お前らも良く知ってる初等部エリアだ。ま、俺ら最上階の人間にゃただのパーキングだがな」
最上階と言うのは帝王院の生徒が言う『大学生』の事だ。一般的に大学部である最上学部の情報はその一切が非公開であり、だからこそ大学部の生徒は比較的自由に校内を闊歩出来るが、大学部の入学から卒業までの全行事を他の生徒が目にする事はない。
「テメーら中等部の頃にゃ、用がなかったろ。だから学籍カードにもアンダーキャノン入場資格がない」
実際大学部が存在しているのかさえ、初等部から高等部の生徒は疑っていた。
但し初等部、つまり小学生の就学エリアは基本的に地下が大部分を占めている為、地下駐車場を利用する大学部生徒を目にする機会も多く、良家子息が多い帝王院では大学部の生徒自らが初等部生徒に話し掛けている事がある。
「たまに痴漢が出るんだよね」
「獅楼、…直ちに口を閉じなさい。不愉快この上ありません」
「今の、宵姫に似てんな金魚の糞1号」
然し、腐っても帝王院。
大学部には外部入学の女子生徒も存在するが、基本的にゲイやバイに抵抗がない生徒が大部分を占めているので、初々しい小学生が歯牙に掛かる事も少なくはなかった。
「…いつかその息の根止めます」
「はっ、出来るもんなら?昔の光姫くらい強気な所も良いな、ダークホースか」
勿論、風紀に見つかれば一巻の終わりだ。最上階だろうが、中央委員会には到底適わない。
「何で仲間同士?が喧嘩するんだよ…」
「あ?」
「誰と誰が仲間ですって?」
「最悪、副担任と生徒なら仲良くしましょーよ。烈火の君…嵯峨崎先生も大人気ないと、思ったり」
そう考えた所で睨む要と鼻で笑う零人を呆れ顔で見やった太陽に、隣の獅楼が顎を掻いた。
「おれ、昔最上階の人にお菓子貰ったことあるよ」
「ちょいとそれは、加賀城君…」
「…見ず知らずの人間から食べ物を貰わない様に、躾られなかったんですか」
呑気な獅楼の台詞に何とも言えない表情を滲ませた要へ、太陽の曖昧な視線が注がれる。
「錦織君は、…良く襲われてたねー」
「何か抜かしましたか、山田太陽君」
「失言でした」
煤けた壁を蹴り付けニッコリ微笑む要に満面の笑みを滲ませ、呆れ顔の零人へ一同が向き直る。
もうゲートは開いていた。向こう側に校舎内と同じ廊下が見える。寮から続く地下遊歩道の出口も判った太陽が感心げな息を一つ。
「ってゆーか、地下遊歩道の入り口があんなトコにあったなんて…錦織君じゃないけど、ちょっと気になるねー」
零人に導かれ降りてきた階段は、寮で働く従業員が消耗品を搬入出する為の出入口で、ゲートの隣に従業員用の扉がある。勿論、教師から掃除夫に至るまで全ての人間が身分証明カードを所持している為、勝手口にもカードスキャナーが整備されていた。
「一応、一般には非公開の隠し通路だからなぁ、アレは」
「どう言う事ですか?」
「色々便利だろ、敵国の間者から命を狙われた海外の要人やら貴族やらを逃がす時とか、災害の時とかよ、色々」
素で吐き捨てる零人に金持ちとは言え庶民に近い太陽が塩っぱい表情で頭を掻き、キョロキョロ辺りを見回す獅楼の尻を無言で殴った要が先程から全く喋らなくなった零人の『荷物』を見る。
「総長、どうかされましたか?」
「お先真っ暗にょ」
「ああ、もうじき明るく、」
線路のない地下鉄のホームに似た薄暗い通路を歩く零人に続き、吹き抜けの巨大な螺旋階段を中央に有したホールへ辿り着いた時、それは訪れた。
遠くから、誰かの叫ぶ声。
複数の足音。
皆が耳を澄まし、
「…漸く、邪魔が減った。」
囁く様な声音が静寂を割る。
背筋を凄まじい勢いで駆け抜けていった寒気に全ての人間が足を止め、無表情で俊を投げ捨てた零人が我に返り、己の掌を呆然と眺めた。
「…コンクリート、それは外への放出を封じる代わりに内部を響かせる」
「俊?」
「隼人の気配だ」
ゆらり、と。
投げ飛ばされた筈の俊が天井へ目を向け、サングラスの下で笑みを象った唇が歌う様に音を紡ぐ。
「Open your eyes、…いつまで寝た振りをしてるんだ、お前は」
ザザザ、砂嵐の様な耳障りな雑音が静寂を破り、目を見開いた太陽の口が言葉を紡ぐより早く何処からかその声は落ちた。
『…総長、起こすのが遅ぇっスよ』
寝起き特有の舌足らずな、何処か不機嫌染みた声音。それは要すら聞いた事がない、然し紛れもなく佑壱の声だ。
片眉を跳ね上げた零人が素早く俊のジーンズを一瞥し、突っ込んだままの右手を確かめる。
「日向にやられたらしいな。どうした、らしくない」
『山田の野郎、余計な事を…。大体判ってんでしょーが、こちとら眠くて仕方ねぇんだよ』
「夜更かしをするからだ」
『アンタが言うかよ。…誰の所為でストレス溜まったと思ってんだ、畜生』
「俺の所為か?」
『以外、誰の所為ですかねえ』
言いながら嬉しくて仕方ないと言った微笑みでも浮かべているに違いない声音へ、微かに笑みを浮かべた俊が緩く首を傾げる。
『マップが届きました。キャノン内部に入ったみたいっスけど』
「隼人が近くに居る。要と獅楼は隣に、健吾は隼人の近くだろう。裕也からは大分離れた様だな。北緯は寮だ」
サングラスを押さえ軽く目を細めた俊が囁けば、何故判るのか理解出来ない太陽だけが首を傾げる。口笛を吹いた零人は何かに感付いたのか、渋い表情の要を一瞥したらしい。
『まだ、セキュリティは解けてない。今セントラル回線開いたら、俺の居場所がバレます』
「だから、お前にも後で作ってやる。そう不貞腐れるな、イチ」
『だって、アンタはあんな奴を相棒にした』
揶揄う様に擽る様に囁く声音が皆の鼓膜を震わせて、震わせて。
ただただ呆然と何もない天井を見つめている要にも太陽にも、キョロキョロ佑壱の姿を探す獅楼にも話の内容は見えていない。
『左席委員なんざ、興味ない癖に』
「楽しそうじゃないか」
『友達が欲しいだけなら、アイツじゃなくても良かったのに』
「何を不貞腐れてる」
『俺のが強いもん』
遂に太陽が滑り転けた。
目を見開いた要が間抜けな表情を晒し、獅楼が真っ赤に染まり、零人の表情が一気に氷点下へ突入する。然し皆、黙ったまま成り行きを見守るだけだ。
『俺のが足長いもん』
「そうだな」
『俺のが髪長いもん』
「ああ」
『俺のが頭良いもん』
「それも訂正しない。イチより頭がイイ人間なんか、そう存在しないだろう」
『俺のが絶対、料理も上手』
「それはまだ、未確認だ」
『俺のが絶対、良い嫁になります』
「出来れば俺様攻めを目指せ」
笑う俊の目線が皆へ向いた。
俊を見つめていた皆が首を傾げ、その中でいち早く気づいたらしい零人の表情がやや和らぐ。
「なのにアンタは、」
『なのにアンタは、』
タイムラグ。
スピーカーから響くより早く聞こえてきたその声に、皆が背後を振り返る。
「そんな奴を選んだ」
何の足音も無く暗闇から歩いてくる長い足。
『そんな奴を選んだ』
「アンタの相棒は、」
『アンタの相棒は、』
プツリ、と。
スピーカーが途切れる音。
獅楼の表情が目に見えて晴れやかになったが、
「俺だけだろ、…総長。」
赤い髪を闇の中で優雅に舞い踊らせながら、俊の目前へ歩み寄った長身が片膝を付く姿にただ呆然としている。
「オーケストラを始めよう」
まるで騎士の様に頭を下げて、まるで貴婦人へ施す様にジーンズから手を出した俊の、その握り締められた右手の甲へ口付け一つ。
俊が開いた掌からリングを受け取った赤い瞳が笑みを浮かべ、
「仰せのままに」
「あばら骨をやられたのか」
「一本きっちり折られました」
「痛そうだな」
「二、三日で治ります」
「ああ、判ってる」
「俺は人間じゃないから」
「佑壱!」
咎める様な零人の声と舌打ちを零す要の網膜に、赤い髪へ鼻先を寄せる銀糸が映り込んだ。
「人間だったら、首輪なんか要らない」
「俺の可愛い、ワンコ」
「次に無断失踪したら。息の根、止めますよ」
己の首に左手を、俊の喉元に右手を。伸ばし掴んだ佑壱の双眸は冷え渡る笑みだけ滲ませたまま、
「いつでも、甘んじて受けよう」
「剥製にして閉じ込めてやる」
「お前がお前で在る限り、いつだろうが。…何でも聞いてやる」
「やくそく、やぶったら、しんでやる」
その答えに一度だけ口元へ意味を乗せた俊の手が佑壱の右手を掴み、恐らく80kgを越えているだろう握力をものともせずに跳ね退けた。
「お前は俺の許しなく死ぬ愚か者か、イチ?」
忌々しげに眺める零人の隣でひたすら沈黙を守る太陽が目を見開いたが、口を開く事は出来ない。
「…出来ないから言っただけ。山田を副会長にするのは、反対です」
「ふん?」
「嫌だけど言ったって聞いてくれないから、愚痴だけ」
「賢いワンコは大好きだぞ」
「俺も、大好きです」
眩暈を覚えたらしい太陽が気絶し掛けたが、慣れている要がすかさず支えて難なきを得た。
「…天然なのかわざとなのか、はっきりしとくれー」
「気を確かに、アレは純粋な師弟愛ですよ。それよりもやはり貴方は認められてない様ですね、少なくとも総長以外には」
「…畜生!何でボイスレコーダー持って来なかったんだ、馬鹿野郎!」
うっかり写メを撮ったらしい零人は無言で近場の壁を殴り、獅楼は羨ましげに俊を眺めている。要の台詞で軽く落ち込んだらしい太陽は膝を抱えそうだ。
「ゼロの野郎まで巻き込んだっつー事は、また、バレたんスね」
「ああ、滲み出るオタクオーラは隠せない」
威風堂々宣う俊の隣で佑壱の溜息一つ、
「逆でしょ逆、滲み出る最強オーラに寄って来るんス。…蝿ばっか」
「今から作戦の本陣に入る。指揮者は私、遠野俊が。
副指揮者、嵯峨崎佑壱。
パイプオルガン、錦織要。
ティンパニー、加賀城獅楼」
要を顎で呼んだ佑壱はそのまま軽やかに螺旋階段を駆け上がって行き、頷いた要を余所に獅楼一歩足を踏み出したが、何かに気づいたのか口惜しげに踏み留まる。
「全ての因子がどう働くのか、とくと御覧下さい」
両腕を広げ指揮者の様にリズムを取り始めた俊の前で、獅楼が眉間を押さえ零人が舌打ちを零したが、二人揃って崩れ落ちた。
「な、何事?!」
「催眠術みたいなものですよ。新月のオーケストラは、眠りを誘う…」
今にも崩れ落ちそうな要が己の太股を握り締め、
「タイヨー、征こうか」
「何処に?」
「鬼ヶ島に」
囁く様な声音に、こんな状況ながら笑ってしまう唇。
「銀鬼は倒せそうにないから、黒鬼を任せてねー。…ちょいと個人的恨みがあるんだ」
「了解、副会長」
零人から指輪を奪った男がサングラスの下で笑った。
「…創作交響曲第1番、深夜の徘徊」
全てを見透かした様に。