カエサル。
君はまだ、生きているかい?
産まれてこなければ良かったのに。
へぇ、アレがブラックシープか。
素晴らしいね、君の頭脳は。
見てごらん、あれが空だよ。
何故余所者がセントラルに?
おい、陛下の耳に入るぞ。
次はこの問題を解いてごらん。
悪魔!
これが麻雀牌だよ、判る?
初めまして、ルーク殿下。
兄さま、今日は何をして遊ぶの?
あんな得体の知れない子供を連れ帰るとは…陛下は何をお考えだ。
サラの子?…道理で、卑しい匂いがする筈だ。
お前がルークか?私はお前の叔母に当たる。クリスと呼ぶが良い。
空に果てはないんだよ。不思議だろう?だから地球は丸いんだ。
おぉ、これはこれはルーク坊っちゃん。日の本の国に目を奪われたか。
素晴らしい!君は是非とも大学へ入るべきだ。
屋敷へお戻り下さい枢機卿。
何で私を幸せにしてくれないの?
おはようございます、教授。
へぇ、君はあの子を手放したのか?
あんなに傍に置いていたのは、ミッドナイトサンだけだったろうに。
寂しくはないかい?
君はまだ、この小さな国に留まってくれるのかい?
人間の世界は狭いだろう。
君にこの星は住み辛いだろう。
ケルベロスは我儘な子だったけれど、誰からも可愛がられた。
ミッドナイトサンはプライド高い子だったけれど、誰からも可愛がられた。
カエサル。
君にこの星は住み辛いだろう。
カエサル。
皇帝と成るべく生み落ちた君の生涯は定められたものだろう。
君の目にはまだ、この世界は映っているか?
君の耳にはまだ、世界の脈動は聞こえているか?
ケルベロスの様に死を恐れないのはとても恐ろしい事だ。
ミッドナイトサンの様に生を厭うのはとても悲しい事だ。
カエサル。
その全てを悟りし頭脳は、この世の果てを視たのか?
カエサル。
生や死が全てだと思わないで、歩いてごらん。
神威。
いつか一緒に歩こうか。
カエサル。
この世界は混沌で、単純だ。
神威。
大きな空だろう?今はまだ、夜空しか見せてあげられないけど。
息を吸い込んでごらん。
君の胸はまだ、動いているか?
一緒に、あの並木道を歩こうか。
(煩い)
(耳障りだ、須くが)
木々の騒めきも遠くで放つ人間の脈動も虫の気配も大気の歪みも全て、鼓膜を絶えず震わせた。
昨日まではただずっと、耳を塞いで生きてきたのに。
「…俊」
何故、こんなに煩い世界へ降りてきたのだろう。
煩い。
黙れば良いのに。
一人残らず消えてしまえば良いのに。
いや、消えてしまえば良いのに。
鼓膜も網膜も耳を塞ごうが骨を響かせる己の鼓動も、全て。
「俊」
だから、死んでしまえば良いのに。
「しゅん」
産まれた刹那から生を否定された自分など。
今すぐにでも。
パキリ、と。
「初期設定だから、50音順だと最後に入ってるかも」
「携帯くらい使い熟しなよー、だっさいねえ」
口の中で弾けた駄菓子に瞬いて、赤外線通信中の隼人と太陽を横目に窓辺へ向かう。
開いた窓から風と共に舞い込んだ桃色、暖かい風は湿気を帯びていた。
「雨の匂いがするにょ」
小さく呟いた台詞は、風に溶ける。
躊躇いなく窓枠を乗り越えた上靴、伸びた前髪が舞い上がり晒された視界、背後の高い所で太陽の声を聞いた気がした。
落ちる落ちる落ちる、真っ直ぐに。
ああ、7階分落ちるのは気分が良い。頭から真っ直ぐに、両腕を広げれば鳥になった様な気がする。
地面まで残り一秒、二階の窓枠を横目に足を大きく振り上げ、宙を蹴った。反動で回転した体は浮き上がり、爪先から地面に辿り着けたのだ。
昨夜見た、神の様に。羽根の様にふわり、と。
「カイちゃん」
そよそよ、風に靡びく木々の下を跳ねる。真っ直ぐに、真っ直ぐに。
桜の洗礼、春風の祝福、蝶々の舞い、体育科だろう生徒達がサッカーボール片手に振り向いた。
「天の君、此処は通れないよ」
「コート整備中だから、向こうを回って貰えますか?」
ああ、そうか。
此処は第一グランドか。
生石灰で線引している生徒や教師が注ぐ視線、何故か真下に赤い文字が見え隠れしていた。
「…レッドスクリプト」
余計な事をする。
きっと佑壱か北緯の仕業だ。いや、裕也かも知れない。
このコートを越えれば並木道に出る筈だ。あの桜並木の向こう側に行きたいだけなのに、ジャージ姿の誰もが邪魔をする。
綺麗に整えられた土、綺麗に引かれていく白線、つまり、これを汚さなければ良いのだ。
「な、」
「うわっ」
「ちょ、」
目の前でストレッチしている生徒の背中を足場に飛び上がり、線引している生徒の持つライナーを経由、転がるサッカーボールを踏んでもう一度飛び上がれば、立ち竦む教師の肩を掴んでまた、空を飛ぶ。
たん、と着地したのは向かい側の白線を僅かに越えた、桜の真下。
「急いでるので、ごめんなさい」
呆然と見つめてくる皆に頭を下げて、並木道の向こうに走った。
ほら。
うっとりするほど長い足、真っ直ぐ伸びた背中、桜を張りつけた黒髪、
「カイちゃん、みっけ」
緩やかに振り向いた背中、風の戯れに乱された前髪の下で、蜂蜜色の瞳が瞬くのを見たのだ。
「俊」
「不倫終了、復縁しましょ」
持ち上がった腕が宙を掻き、作り物めいた美貌が何処か呆然と囁く名前を聞きながら、無駄な肉を一切纏わない腹に抱きつく。
もう片手に握られた星眼鏡を見つめ、首筋に落ちてくる鼻先から与えられた擽ったさに笑えば、腰に巻き付いた腕が凄まじい力を込めた。
「お散歩してたにょ?」
「俊」
「一人でお散歩したら、めー。誘拐されたらどーするにょ!」
腹に巻き付けていた腕を首に巻き付けて、何度見ても全く飽きない容貌をまじまじと見る。美人は三日で飽きる、と言うのは迷信だ。
こんな美しい剥製があれば、毎日抱いて寝る。
「元気ないみたい。誰かに苛められたなり?」
「…」
「カイちゃん?」
何か言いたげな唇が一度開いてまた貝より固く引き結ばれ、目だけで囁き掛けてきた。
擦り寄ってくる鼻先、近付いてくる唇を右手で押し返せば、瞬いた蜂蜜色の瞳が僅かに伏せられる。
「言いたい事があるなら、誤魔化しちゃめーよ。言いたい事は言いたい時に言わなきゃ、一生後悔するにょ」
「…」
「カイちゃん」
「………昔、」
一言。呟いてまた、閉ざされた唇を見上げながら瞬き一つ。
怒る母親を前に言い訳を探す子供の様だと首を傾げて、爪先立ち。
「人魚姫に声の魔法を掛けましょう」
ちゅ、と。昨日まではした事もない唇へのキスを贈って、血が流れていない様な白い頬を撫でた。
「昔」
「昨日より前」
「黒髪に憧れていた事がある」
脈絡無く落ちてきた言葉に首を傾げ、綺麗な銀色を思い浮べた。今は偽りの黒に隠されている。
「話しただろう。俺には日本の血が四分の一、母方がドイツと日本の混血だったんだ」
「カイちゃんのお母様、やっぱり美人さんですか?」
聞いて、吊り上がった唇に混乱する。微笑みではないその笑みはたった一瞬、すぐに掻き消えた。
「知らん」
「何で?」
「3つになる前に別れた相手だ。最早忘れた」
「そう」
ヨシヨシ、と頭を撫でればまた近付いてくる唇。外国の挨拶は日本の挨拶には当て嵌まらない、ともう一度右手で押し返した。
ちゅ、と掌に触れる柔らかい感触。続いてぺろりと舐められる気配に後退れば、腰を抱く腕の力に阻まれた。逃げ場はない。
「産まれてこなければ良かった、と。子守唄の様に何度も、喉元を掴む女が囁いた」
無意識に神威の喉を見つめ、指を一本一本舐め辿る舌先への抵抗を忘れてしまう。気付けば鼻先で退かされた右手、近付いてくる唇を拒むものはもうない。
「んぅ」
恐怖からか羞恥からか、塞がれた唇を引き剥がそうと弓なりに反った背中も然程保たない。今にも後ろに倒れそうな体は神威の右腕だけで支えられていて、右手は神威の左手に捕まった。
その左手が持っていた筈の眼鏡が、自分の左手に。いつの間にか瞬間移動、だなんてまるで魔法使いの様だ。
「Black sheep」
唇を撫でるスペル。
黒羊。仲間外れを比喩する、あまり良い意味の言葉ではない。
「俺は黒い羊だ」
「誰が、そんなこと」
「人間とは哀れな生き物だ。殺したい相手を殺せぬ内に、神と崇め膝を付く様になる」
「誰がそんなこと、言ったにょ」
「この星が狭いのではない。この世界が住み辛いのではない」
意味不明な言葉ばかりが鼓膜を震わせた。
「人間が煩わしいのではない。即ち、この俺が命を与えられたのが間違いと言うだけ」
「カイちゃん、」
「何故、生み落ちたのだろう」
まるで己に問い掛ける様な、神に祈る様な声音だった。思わず左手の眼鏡を落とし掛けて、ああ、そうか自分は今、この綺麗な顔を殴るつもりだったのかと瞬いたのだ。
「生み落ちた刹那から生存意義を否定された生き物に、見える世界は全てが無意味だ」
昨夜、この男の右手がそうした様に。
「生など知らねば死への恐怖など知らぬままで在れた。死を知らねば誰も悲しむ事はない」
「いい加減に、しなさい」
「お前が言った通りだ。哀れな人間、自ら死ぬ覚悟もなく、だからと言って哀れなほど惨めに生へ縋る事も適わない」
「オタクが皆、根暗だと思ったら間違いにょ」
「産んだのが間違いだと言うなら、初めから産まねば良いだけだ。産んでくれなどと頼んだ覚えもなければ、死なせてくれと頼んだ覚えもない」
「カイちゃん」
「いつか死ぬ命を産み落とす、そう、女と言う全ての生き物が消えてしまえば良い。黒羊を厭うなら、産んだ白羊を全て殺せば良い。
俺を排他するなら、何故この世に産んだ」
右手。
捕まっていた右手、肩を引いて掴まれたまま固めた拳を叩きつけようとして、止めた。
「ぁ」
避ける気配を見せない無機質めいた美貌を前に、頬を撫でる風の異常な冷たさに気づいたからだ。
ああ、桜が落ちてきた。
こんな日は散策日和だ。遊び回って疲れたら昼寝すれば良い。雨なんか寝ている内に止んでいるだろう。
春雨は雷を招くから、大人しく。布団に包まって目を閉じていたら、何も怖いものなど存在しない。
「泣くな」
困った様に囁き掛けてくる声が、頬の冷たさの意味を教える。
勝手に出て来るものをどうしろと言うんだ、と鼻を啜れば、頬が痙き攣った。
「うぇ」
もう、駄目だ。
「ふぇ、ふぇぇぇん」
「俊、」
「うぇぇぇん、ふぇ、ひっく、ふぇん」
「泣くな、思考が狂う」
狼狽えた声音、眼鏡を奪う指先、擦り寄ってくる鼻先が頬を目尻を舐めて、瞼の上に口付けた。
柔らかい、暖かい。鼻水を啜りながら広い胸元に飛び込めば、ちゃんと命の音がする。
「う、産まれたら生きなきゃいけないにょ!ふぇ、宿題出されたらやらなきゃいけないにょ!何でそんな事言うの、馬鹿ァ!」
「…俊」
「やられる前にやっちまうにょ!ふぇ、黙って殺されるなんてただのお馬鹿ちゃんなり!ひっく、カイちゃんが出来ないなら僕が皆やっつけてやるにょ!」
理不尽に殴られた昔を思い出した。
たまたま擦れ違っただけで、高校生数人に意味もなく殴られた事がある。その目が気に入らない、と。火の付いた煙草を押し付けられそうになって、小学生に出来た事など逃げるくらいだ。
集団登校していた皆が、ランドセルを抱えて逃げていった。
嘲笑う高校生達の手が真っ直ぐ飛んできて、このまま殴られるくらいなら殴り返してしまおう、と。手を出したのが最初の暴力。
誰かを傷つければ仕返しにやってくる。何度も何度も。
繰り返す内に元々少なかった友達は益々減って、私立中学入学と同時に孤独になった。家族以外に話し掛けてくれる人など、コンビニの店員くらいだ。
いらっしゃいませ、有難うございます。
そんな営業挨拶だけが、他人から与えられる言葉。中学入学の春まで、ずっと。
いらっしゃいませ、有難うございます。たったそれだけで嬉しくて堪らない。小銭握り締めて毎週買う漫画、その日だけ軽い足取り、地元の不良達が曲がり角から逃げていく。直後、ぶつかった赤。
足元には白い猫。
『今日から此処が兄貴の城ですよ』
幸せなど、何処にでも転がっているのだ。不幸を孕んで、何処にでも。
「お手て繋いだら、涙さん止まるにょ」
差し出した掌、すぐに握り返されて見上げれば、困った様に眉を寄せる綺麗な顔を見た。
「チャイム鳴るまで、二人でお散歩しましょ」
蜂蜜色の眼差しが揺らいだ気がする。泣いていたのは弱虫な自分の筈だ。
「お手て繋いでお散歩したら、死にたいなんて思わなくなるんじゃないかしら」
「…」
「ね、カイちゃん。一緒にお散歩しましょ。桜がとっても綺麗にょ」
なのにその蜂蜜が、今にも溶けそうに見える。