「おーい。おぉーい、聞こえていたら返事をしてくれたまえ、恥ずかしがる事はないのさ」
床に寝転がり頬杖を付く少年は、赤縁眼鏡を曇らせる。覗き込む壁の下方に備えられている排気口からは、何の返答もない。
「…ふむ、近頃はシャイな男が多いのかね。これは僕の持論だが、謙虚が常に美徳とは限らないのだよ。何事も限度が大切なのさ」
育ちの良さを窺わせるセレブリティフェイスは、この学園では霞んでしまうものの、普通からはかなり懸け離れた造形だ。
「溝江信綱、一生のピンチ、ではあるまいか。天の君が助けてくれると今でも揺るぎなく信じているけれど、よもやそれに甘えて大人しくしている僕ではないのだよ」
ふっ、とシニカルな笑みを滲ませた彼は、すっと背を伸ばし、シャツの袖を優雅に捲る。
丸められたブランケットの位置も、引き出しをすっかり取り外され裸になったチェストも、同じ位置から変わっていない。
但し天井は少しずつ、微々たる変化をしていた。何せ数時間前に投げた鉛筆が残した筆跡が、もうすぐ壁の向こうに消えてしまう。
「天の君親衛隊はあらゆる困難、苦難、ボーイズラブの柵を乗り越えねばならないのだよ」
ステレオタイプの彼だからこそ、天動説がまやかしだと科学的に証明された現代に於いて、一分間で一ミリ動くか動かないかの微々たる変化を観察出来たのだと言えよう。
「フラフープになった気分なのさ」
つまり『動いているのは四方の壁だけ』と言う事だ。
恐らく床や天井を除く四方の壁を回転させる事で、フラフープの容量でスライド移動しているに違いない。少なくても現時点では、だ。
全て仮定でしかない為、気付かない内に違う動きが加わっている可能性はあった。幼馴染みと、クラス委員長と言う名の雑用係が最後に残した台詞には、天井にあった筈のダクトが動いた、と言うのだから。
ルービックキューブの仕組みでは、天井が回転するは不可能だ。何故なら必然的に床も動かさなければならない。
「可能性として考えられるのは、部屋によって稼働域に違いがあると言う事かな。天井と左右の壁が同時に動いたら、誰もが面白味のない真っ白な壁よりも、天井に目を奪われてしまうのだよ」
天井がスライドしている事に驚いている内に、左右の壁までもスライドしていたとして、誰が気づくだろう。実際、真新しいノートよりも書き心地良さげな部屋中に、先住民の書き置きはほぼない。
ダクトの内側やチェストの中など、発見した殆どが誰にも見付からない…消されてしまわない場所か、備品だ。溝江が付けた天井の鉛筆跡も、事実もう数分で見えなくなりそうな位置に流れてしまっている。消えてしまうメモを残すだけ無駄だ。
「利便性に富んだ設計とそれを可能にした最新鋭の技術に脱帽したよ。ハリウッドに技術提供すれば、格段に面白い映画が観られそうだね。これなら食料を運ばずとも部屋が勝手に補充し、」
ポトン、と。
チェストの方面から音が聞こえ、見れば裸のチェストの中にパンの袋と紙パックの飲み物が落ちている。もう驚きはない。出陣に向けて腹ごなしだと立ち上がり、上品に食事タイムだ。
「何せ入り口がないから、脱獄を考える者も少ない。…またパンだらけのロールパンか、成長期の男子を何だと思っているのかね。でも僕は食べ物を粗末にはしない主義、御馳走様」
一年Sクラス四番の優秀な彼は大切な赤縁眼鏡を外し、豊臣秀吉が如く胸元へ仕舞い込んだ。
愛用のハンカチで品よく口元を拭えば、坊ちゃん育ちだからこその行動力が花開く。
「さて、換気口に忍び込むのは生まれて初めての経験なのさ。血湧き肉踊る感覚に、抗う必要はない」
待っててくれたまえ、我が友と雑用係…失敬、クラス委員長殿。
「おーい」
肺が破裂しそうだ。
足りない空気を補おうと喘ぐ唇も喉も、異常に渇いている。
「そろそろゴールしとけや、倒れちまうぞぃ?」
立ち止まるのが怖い。揶揄とも憐れみとも取れる声には、今は死んでも振り返りたくない。
「カナメ」
煩い、付いて来るな。
頭の中では煩いくらいに強く繰り返している筈の罵声は、渇き切った喉の奥で擦り切れ、ただの一文字も声になろうとしない。
「おーい、カナメ〜」
呼ぶな。惨めになるだけだ。
(それが優しさだと知っている)
(目を覆いたくなる様な傷痕を)
(獰猛な狼で消してしまったのは、)
(思い出さなくて構わない、と)(忘れてしまえ、と)(お前は何も悪くないんだ、と)
恩着せがましい!
(やめろ)
助けてくれなど言ってない!
(そんな事、考えたくもない)
跪いて涙ながらに感謝すれば満足なのか偽善者が…!
(これ以上、惨めな思いはしたくない)
(呼吸を求め惨めに喘ぐ細胞)
(こんな時まで生に執着するのか)
(発狂寸前の、身を這う嫌悪感)
(狂った方がどれだけ楽だろうか)
(自己嫌悪が内臓奥深く、食い尽くす前に)
「おーい」
彼はどの音楽家より美しい音を奏で、まるで空気さえも楽器として操っているかの様だった。
(体一杯リズムを刻み)
彼が奏でる全ての楽器がまるで生きているかの様に活き活きと、踊る様に歌っていたのを覚えている。
(人も虫も風も太陽の光でさえ、星の光も例外ではなく)
等しく全てを、(綺麗なものも汚れたものも隔てなく全てを)
いつか母の体内で聞いていた鼓動に似た、夢の様に心地良い音楽でいとも容易く包み込み、(いずれ世界中の人々を魅了する筈だった)
祝福された舞台の上で、優雅に旋律を紡いでいたのだ。(古びた約束などなかったかの様に)
(遥か遠い舞台の上)(手を伸ばしても届く筈もない高みで)
「カナ、」
「…来るな!」
限界だ。
情けないほど笑っている膝を押さえ立ち止まり、漸く口を衝いた台詞に喉を掻き破ってしまいたかった。
見るな。
何も彼も全て奪った許されざる罪人を、もしも許してくれるならもう、二度と姿を現さないで欲しい。
「来るなっつったってお前、いきなり走り出したら追い掛けちまうだろよ(´`)」
「黙れ!誰が付いて来いと言った!」
「はいはい、俺が勝手にストーキングしました(´Д`) 青春の苦いワンシーンを30分も全力疾走した結果、痴漢扱いとかwしょっぱいw」
馬鹿にしているのか、と。
頭の中を駆け抜けた言葉は、容易に喉を破り舌を滑り落ちた。
「いつ俺が馬鹿にしたよ?(´`) 何だよカナメ、お前まさか………生理中なん?(*´д`*) そうと知ってりゃ、」
「…煩わしい」
やめろ。
冗談めいたその優しさを、無駄にしてしまう。
「言った筈だ」
誰か。
「二度と顔も見たくない」
誰か。
「…お前が居なくならないなら俺が消えるだけだ。ケンゴ、本当にお前はいつだって邪魔でしかない」
神様。
親にすら捨てられた子供には、貴方の加護は与えられないのでしょうか。
「とことんカスだな、オメーはよ。」
心臓を貫く様な鋭い声音に、半ば呆然と、恐らく無意識に振り向いた。
奇妙な笑みで固まっている健吾の背後、健吾の肩を引き寄せた長身の恐ろしいほど鋭い双眸が、まるで刃の様に。
「何処までひねくれてやがる、見損なったぜ。行くぞケンゴ、殿の所に戻ろうぜ」
「…ユーヤ?あらま、オメー何で汗だくなんだよΣ( ̄□ ̄;) おわっ、つーか俺、さっきまでハヤトの尻に跳び蹴りしたかったんだけど!(◎Д◎)」
「判った判った、蹴らしてやっから行くぜ。んな所でもたもたしてたら、打ち合わせハブされんぞ」
「それは困る(ノД`)゜。 会長の叔父さんも気になってんだよ俺ぁ!サクサク追っ掛けっぞ(//∀//)」
遠ざかる背中をただ、見ていた。
空虚にはなれない胸の内には羨望と、自虐的な憤りばかり。
気配はすぐに消え果て、残されたのは惨めな男と月、だけだ。
「…神よ」
月と闇。
どちらがより人を狂わせるのか、或いは、そのどちらも。
「ラーメン食いたくね?チャーシューで麺が見えねぇレベルの、脂ギッシュこってり味噌味(*´д`*) 餃子と半チャーハンは外せねーっしょ(´Д`)」
ざくざくと。
歩く度にスニーカーの下で畦道が音を発てる。遊歩道の一部はメルヘンなのかカントリーなのか判らないアナログ仕様で、蒲公英の綿毛と葉だけの紫陽花が雑多に生えている。
「あーあー、オメーはどうせ、成分の殆どが水のキャベツともやしが浮いた塩ラーメンにしか興奮しねぇ、つまんねー男だわ(*/ω\*) 男なら脂肪を求めろや、乳と肉が法律っしょ(´∀`*)」
風車がゆったり回る光景をライトアップする必要性を考えた。およそ400メートルほど離れた所にサクラダファミリアさえなければ、オランダの田舎町だ。
舗装は勿論、踏み石もない田舎道を再現しているのはロマンティックだが実用的ではない。実際体験している立場での意見だ。
「…こりゃ振られても仕方ねぇわ、救えねーorz 折角ハーフっつーミラクルスペック備えてんのに、趣味が日本史じゃ歴女しか寄って来ねーわな(((つД`)」
態とらしい会話のネタはすぐに尽きてしまい、降りかかる痛いまでの沈黙から逃げるべく、引っ張られている手首を見やった。
その行動に意味はない。と、思う。
怒っているのか呆れているのか、どちらにしても好意的ではない。何せ手首が抜けそうだ。
どうしてお前が怒るんだ(と、判り切った事を尋ねるのは馬鹿か性悪)そろそろ見捨てたくなっただろう(散々振り回されて飽き飽きしただろう)もう良いんだ(自由になりたいだろう?)(罪悪感とも同情とも思える友情を終わらせて)(ピリオドを打て)
(五線譜はいつまでもピリオドを待っている)
(休符のないオーケストラは疲労困憊だ)
(狂った指揮者を憎んでる)
「裕也」
呼べど手首の枷は外れない。終わらせてしまう事が何よりの『友情の証明』だと知っている。もうずっと以前から、知っているだけで実現しないまま。
(いつか音の洪水に)
(何も彼も呑み込まれるのが望み?)
(違う)
「リヒト」
「…駄目だ」
漸く、振り返ったエメラルドの眼差しに、無意識な安堵を覚えて自嘲した。何が友情だ。偽善的で自己満足甚だしい、自己都合の物差しばかり。
「それ以上つまんねー事ほざいたら、許さねーぜ」
「…焼きそばも駄目ってか、テメーは俺を餓死させてぇんだな?(´・ω・`)」
瞬いたエメラルドが振り返り、指差す先の屋台街道を認め沈黙した。
(可哀想に)
(その憐れむ事さえ忘れてしまう献身的な優しさは、こうして悪人に付け込まれる)
(悪人は己の罪も目的も忘れ)
(今ではマリアの為にタクトを止めない)
(狂った旋律を死ぬまで)
(可哀想に)
喜劇でも悲劇でもないオペラ座は終わりなき舞台、現実と言う名の音を紡いでいる。壇上には肉体が滅びて尚、指揮棒を揮う指揮者の奏でる五線譜。
「…開店は明日だぜ」
「なぁに、ちょっとお願いしたら融通してくれんだろ(*´Д`) 工業科の作業着に悪い奴は居ねーってw」
「まー、テメーに比べたら善人ばっかだろよ」
「人数分買ってって、安っぺぇ炬燵で夜食としけこもうぜ(´∀`*)」
「殿とハヤトだけで十人前は要るんじゃねーか。どうやって持ってくつもりだよ」
「そこはオメー、…優しくお願いするに決まってっしょ?(*´д`*)」
誰も居ない所へ行こうと。
いつか密やかに語り合う子供達を見た。誰よりも幸せに満ちたその光景からは、どの賛美歌よりも美しい音が溢れていて、
「つくづく最低だぜ」
「ありゃ?今頃知ったんかよw」
夢が叶った時の祝福の曲は何を捧げよう、夢を叶えてあげる為には何が出来るのだろう。
タクトを握った日の淡い決意はいつの間にか姿を変えて、今はもうその影もない。
何を救おうとした。
(浅はかな覚悟で)(演奏者達から体力を奪っていく傲慢な指揮は)(腕を止める事も時間を巻き戻す事も出来ない)
(自分が邪魔者だと気づくのが遅過ぎて)
「狼少年はロクデナシってよ、相場が決まってっしょ(´∀`)」
(誰も救われないのだ。)