「…どうします?」
喧騒遠く、普段より艶やかにライトアップされた朱塔を見上げる頭が、囁く様に問いかけてくる。
ムツゴロウさん宜しく、数分前まで理事長をわしわし撫で回していたとは思えない弱気な声音に、あの行為が自暴自棄じみた現実逃避の現れだった事を知らしめた。
然し今になって焦燥感が実体化し、行くのか行かないのか、どうすべきかを他人に委ねたいのだろう。早い話が責任転嫁だ。無責任な。
「理事長のご指示ですがねぇ」
「やっぱ…シカトしたらマズいですよねー」
青ざめる額を満面の笑みで見やれば、あわあわと挙動不審。無責任な質問に甲斐甲斐しく答えて貰えると思っていたのだろうか。性悪だの陰険だの、顔を合わせる度に笑顔でぼざいておいて。
そんな事を言えば確実に新たな罵詈雑言を浴びるだろうは明白で、だから少しだけ彼に同情してやる様な表情を作る。
「困りましたねぇ、マズいでしょうか」
「そりゃマズいに決まってんでしょ、理事長ですよ理事長っ。ほら、俺ってこう見えて左席委員会だし…」
「自ら立候補されましたねぇ。始業式典での勇ましい光景は、今も脳裏に焼き付いていまふ…ふふふ」
「あーあー何も聞こえない、何も聞こえないー」
馬鹿な子供。
哀れな思考回路だと半ば同情してしまうのは、責任を転嫁する相手が悪すぎるからだ。
極々平凡な子供と、神に跪きし忠僕の責務を量りに掛けるべくもなく、比重は知れている。
「ちっ、叶二葉なんかに相談した俺が馬鹿だった」
「陰口はもう少しこっそり」
「くそぅ、迂闊に判断出来ないぜ。俊に俺の所為で迷惑掛けたくないし…どないしよう」
「あんじょう気張りや、としか。おや、頬に何か付いてますよ」
無知な子供を蠍の毒へ誘うのは簡単だ。
付き添ってやると言えば彼は満足し、何の疑いもなく煉瓦の階段を登っていくだろう。実際、責任転嫁をする段階で答えはほぼ決まっている。
「え、何だろ。ほんとだ、何処でこんな黒いの付いたのかな」
「黒?」
頬を拭ってやれば、白い手袋に付着した汚れを認めた太陽は不思議げに首を傾げ、恥ずかしげに頬を拭った。
どう見ても、これは血だ。
抱えられていたとは言え、あの速さで運ばれていたのだから、己の髪やシャツの襟でも切る事はある。
幾ら夜間とは言え鮮やかなライトアップの元、これが黒く見えるのは異常だ。ただの言い間違いだろうかと考えながら、挙動不審に時計台を窺っている背中を窺う。
「理事長、悪人には見えなかった…ですよねー。ほんとどうしよう、ケータイ貸したまんまだし…」
「さぁ、どうしますか」
「ちょっと、真面目に考えて下さいってば!中央委員会でしょ、生徒の相談に乗ってこその閣下じゃないんですかっ」
「そうですねぇ。仰る通りですが、万一選択を間違えれば罷免されてしまうかも知れませんから、迂闊にはねぇ」
「誰がアンタみたいな太々しい人をリコールすんですか。例えされても口手八丁うまく躱す癖に…」
「下院公安であらせられる左席委員会副会長の御言葉には、棘がありますねぇ」
振り向いた太陽はきょとんと目を丸め、不思議げに二葉を見つめてきた。想定していなかった反応に首を傾げれば、目を見開いた彼はビシッと指を突き付けてくる。不作法甚だしい。
「叶二葉…さん!」
「そんな無理矢理敬称をねじ込まずとも、ふーちゃんと呼んで下されば返事はしますよ。あくまで返事だけは」
「有り難い権力のご指南でほんとに申し訳ないんですけども、…俺っ、はっきり言ってリコールの仕方を知りません!」
あ、馬鹿だ。
自信満々に馬鹿だと暴露しやがった。いやいや今更そんな、実は知ってました。だって君21番ですもんね。
光の早さで二葉の頭を駆け抜けた台詞は、素早く口元を塞いだお陰で、声になる惨劇は免れた。
「多分、そらもう面倒臭い書類とか書かなきゃなんないんでしょ。そんな雑務…俊にやらせるしかない」
「…そうですねぇ。時代はエコ。書面の提出は義務付けられていませんが、貴方の中指で燦然と輝く指輪を握り締め声高に、レッツリコール!と勇ましく叫ばなくてはなりませんねぇ」
「やだ、そんな恥ずかしいコト死んでもやりたくない。俊にやらせよう、それがいい」
副会長の癖に会長を虐げる事で決定したらしい。うんうん頷いたでこっぱちは、クルーリと平凡な右向け右ターンを決め、二葉のブレザーの裾を鷲掴む。
「おや」
「平穏&無事、中央委員会も左席委員会もモットーはラブ&ピースですよねー」
「我が中央委員会にその様なキャッチコピーがあったなんて、初めて知りました。大層感銘致します」
「指輪握り締めたら生徒証明証があったの思い出して、念の為にインフォメ確認したら、役員は第3小会議室に集合しなきゃいけないんです」
「ええ、中等部と高等部の各自治会役員に招集が掛かっています。但し我々は自治会役員ではありませんよ」
ぴたっと足を止めた太陽の旋毛を見るともなしに見やれば、携帯が電子音を奏でる。モーツァルトのレクイエム、静やかな夜に似合いのクラシックだ。
「残酷な天使じゃない…!」
「はい?」
「や、気にしないで下さい。第三新東京市はきっと平和です、実際2015年には何も起こらなかった」
「何年前のお話でしょうかねぇ」
パカッと開いた携帯を見れば、シークレットコールの表情がある。残念ながら一般人の前で済ませられる会話は期待出来ない。
だが、そんな事を悟らせる失態はしないのが叶二葉であるからにして、
「もしもし、可愛いふーちゃんですが?」
晴れやかに応対すれば、『何処が可愛いんだ』と言わんばかりに、太陽はさっさと去っていく。
…と言う計算式は、何処が間違っていたのだろうか。
『ジェネラルフライアを見た』
「…おや、ノヴァのご指示ですか?」
『明白であるのは、私の指示ではない事だ』
「推測でも構いませんよ。よもや我々を査察するつもりでしょうか」
『人形が意志を持てばいずれこうなる事は想定していた。今更どうなるものでもない』
耳には聞き慣れた静寂なる声音。
網膜には見慣れる事など有り得ない筈だった額と、陽光の下で茶に変わる双眸。
「今、どちらに?」
『自らが招いた些末事だが、部屋にて軟禁状態だ』
「オーバードライブですか…面倒臭い事態ですねぇ。私では解除に24時間は必要です」
『15分後には強制解除する』
「流石でございます」
とんでもない事態だ。
最高セキュリティーを発動させた本人が、たった15分間でそれを強制解除させる。つまり、ルービックキューブ状の寮内から自室を地上に弾き飛ばす、と言う事だ。
ただでさえ親睦会で招いた西園寺学園の生徒一同と、眠らぬ準備に励む生徒、期待に胸を膨らませ徹夜覚悟の生徒らが、施設内の至る所に散らばっている。
直ちに避難命令を発表し、被害区域を特定し無人状態にしなければ、いつかの二の舞だ。今度はこの間の被害では済まない。
「ただ少々、都合が悪いんですが」
『そうか。然しこちらにも都合があってな』
「せめて30分、お時間頂けませんか」
『許せセカンド』
足元が僅かに震えた。
二葉のブレザーの端を掴んだままの太陽は気付いていないらしく、
『幾らか気が逸った。…5秒後に辿り着く』
巫山戯けるな何が15分だ、と。叫ぶ暇なく引き寄せた太陽を胸元に抱き締め、本能的に背後へ飛び退いた。
塔の周囲に敷き詰められた煉瓦が目に見えて震えるのと同時に弾け飛び、塔へ続く階段の入り口を塞ぐ様に地面から突き出したのは、巨大なコンクリートの箱だ。
「な、ななな、何じゃこりゃー!」
「…気が合いますねぇ、私も同じ様な気持ちですよ山田太陽君」
「地面からっ、地面から生えた!見たろ?!今っ、地面からー!!!」
「ええ、見ました。大丈夫、幽霊でも幻覚でもなく、確かに生えましたとも。土筆の様に、にょきっと」
「にょきっと!にょきっと生えたー!何じゃそりゃー!んな訳あるかー!」
必死で叫びながら二葉にしがみつく太陽は涙目で、心から同情するしかない。
ガチャリと扉が開く様な音の直後、ドカッと衝撃音が響き、箱の側面から吹き飛んだ分厚い扉がズドンと音を発てる。
「何処だセカンド、よもや下敷きになったのではあるまいな」
囁く様な声音。
沈黙した扉の上に降り立った長身に頭を抱えれば、腕の中でパクパク喘ぐ唇に気づいた。
下敷きになっていた方が、どれほどマシだったか。
「か、灰皇院ーっ!!!お前、お前さんと言う奴はー!!!」
「…騒がしい雑音だ。誰かと思えばヒロアーキ副会長ではないか。子供はとうに夢を見ている時間だろう」
「貴様ぁあああ!!!誰が子供やねん!生まれ変わったら不細工になれ!バーカ!バーカ、」
「鎮めよセカンド。耳障りでならん」
艶やかライトアップ、聳える真紅の塔を背後に恐ろしいまでの威圧感を従えた長い足が、近付いてくる。
カタカタと小刻みに震える体躯を無意識で抱き寄せ、ズレた眼鏡を押し上げた。
「プライベートライン・オープン、中央情報部コード:スパイラル・コアに命じろ」
『コード:ルーク承認、ご命令を』
「直ちにジェネラルフライアの現在地を追跡、特別機動部並びに対外実働部の特殊工作員を我が元へ」
『マスターファースト、マスターディアブロへ通達致します』
「必要ない。ルーク=フェイン=ノア=グレアムの名に於いて、全ての社員へ伝達せよ。…これは命令だ」
静かな蜂蜜色の双眸が真っ直ぐ、太陽の肩を抱いたまま動かない二葉を見据えている。拒否は許さぬとばかりに、静かな双眸だ。
恐ろしい命令を言おうとしている事など微塵も、ただの微塵も悟らせぬ余りにも静かな、穏やかな眼差しにさえ思える。
『了解。セントラルスクエアに一斉放送、マスタールークよりご命令があります』
塔を照らしていた証明が一斉に白銀を照らし、突き出た箱の両脇から夥しい数の槍が姿を現した。まるで塔を囲む様に、3メートルほどの鉄槍は数千本あるだろう。
「キング=ノヴァを隔離した」
遥か上方、塔の上空に鎮座している羅針盤を見上げた男が宙に浮いた光のキーボードをなぞった。
「日本到着次第、ジェネラルフライア諸共捕縛せよ」
『マジェスティを、ですか?然しそれは、』
「あれは男爵の残骸だ」
塔の扉が開く。
姿を現した車椅子の女性は慌てた様子で、抱いていた白猫をそのままに目を見開いた。
「ルーク!これは貴方の悪戯ですか?!」
「ご機嫌如何ですか、お祖母様。…速やかにこちらへおいで下さい」
凄まじいほどの威圧感だ。
二葉と太陽からは背中しか窺えないにも関わらず、凍る様な恐怖が全身を支配している。
「何を考えているの!貴方はとても賢くて優しい子よ、早くやめなさい!」
「背後に悪魔が取り憑いている」
「ルーク!」
「隆子、斯様に大きな声を出すのは控えよ。そなたの体に好ましくない愚行だ」
学園長代理の背後、闇から姿を現した金色の足元に、飛び降りた白猫が戯れついた。
「アダム、私の元へ来い」
「そなたの様に攻撃的な人間には従う筈がなかろう」
「アダム、そなたは私の飼い猫だ。飼い主を見間違えるほど、そなたは愚かだったか?」
「幼子を苛めるでない。悪魔の様な所業と心得よ、カイルーク」
「…恐れながら父上、貴方に名を呼ぶ許可を与えた覚えはない」
ゆるりと首を傾げた金髪の足元から、素早く駆け抜けた猫が神威の足元をも通り抜ける。真っ直ぐ二葉の足元まで駆け、太陽のスラックスを駆け上り、突然の事態に反応出来ない太陽に頬摺りだ。
「ほう、賢い猫よ。そなたら二人して振られるとは」
闇より何処からともなく響き落ちた声音に、神威ですら弾かれた様に辺りを見回す。
太陽から離れた二葉も、その気配にまるで気付かなかった為に表情が曇る。
「誰ですか、姿を現しなさい!」
「誰?…名を尋ねられるとは、斯様にも新鮮な体験が他にあろうか」
酷く愉快げな声の主は姿を現さず、ただ声だけが響くばかり。
それはまるで、
「我が名はノヴァたる前に淘汰されし八代男爵、レヴィ=グレアム」
この世に在らぬ存在と言わんばかりに。