空を駆ける風の音を遠くに。
緑馳せる虫の声を酷く近くに。聞いている様な気がする。
十六夜 目醒め知らず 呼吸忘れた銀糸の宝
乙女嘆き慟哭の果て 月が零した刹那の涙
太陽の慈悲 天空焦がし 銀糸を抱く
いざ惜別の刻 黎明よ
黄昏待たず 闇を招く
「………何だ、この歌」
誰かが何処かで奏でる歌を聞きながら、見上げた空は透けるほど蒼い。
「親父の野郎、また余所の人間を連れ込みやがって」
各地を巡る吟遊詩人は無国籍扱いになっている。
出入国の規制が厳しいラグナザードでさえ彼らは足を踏み入れる事が出来るのだが、貿易商ですら入国を認めないフィリスでは吟遊詩人の特例措置も事実上受け入れていない。然し、シャナゼフィス王権に入ってフィリスの閉鎖状況が大きく変わった、と言うのは歴史の授業で良く出る話である。
宮殿を抜け出しては城下町の学院に生徒として紛れ込んでいた俊は、授業の都度シャナゼフィスを讃える教師達にいつも不貞腐れたものだ。
誉れ高き精霊王も息子にとってはただの人でしかなく、何かある度に泣きながら頬摺りしてくる中年を『自慢の父』とは呼びたくない。
下町の子供達が『王様の息子になりたい』と言う度に、身分を隠していた俊はぷるぷる震えたものだ。『王妃様の娘が良かったな』と言う言葉はまだイイ。
父の武勇伝は母を口説き落とした事だけだと俊は半ば本気で考えている。
左頬に涼やかな緑の感触を、右頬に照りつける太陽の熱を、左腕にふわふわした毛並みを。
認めて寝起きの瞳を瞬かせた。
「良く寝たなァ、…寝てる時も超絶可愛いなんて、流石俺のピヨン」
欠伸を噛み殺しながら自由の利く右手で頬を撫でる。左腕の上に小さな頭を預け体を丸く縮めた綿毛が、柔らかそうなタラコ唇をむにゃむにゃと蠢かせている。
知らず知らず弛んだ笑みが零れた。何か美味しいものを食べている夢でも見ているのだろうか。
空には燦然と輝く太陽、僅かばかり西へ傾いてはいるものの、未だその威光は衰えない。庭園を我が物顔で飛び回る虫が吟遊詩人に負けない大音声で合唱している。
「暑ィし煩ェし、ピヨン寝てんだろーが、ちィーとは黙っとけ」
起こさぬ様に抑えた声は芝生を駆ける穏やかな風に奪われた。けれどまるで俊の愚痴を聞き届けるかの様に、青空を流れる純白の分厚い雲が太陽を覆い隠し、湿度を伴う暑さにも負けない虫達は暫しの静寂を呼び寄せる。
願いが通じた事に僅かだけ気を良くした男は満面の笑みを浮かべ、汗が滲む首の裏へ手を当てた。
「…ぶつぶつ出来てそう、汗疹ちゃん的なアレコレが。誕生日近いからかなァ」
ぽりぽりと掻けば痒みは増すばかり。欲望に負けて掻きむしれば、振動でピヨンの眠りは妨げられてしまうだろう。
芝生の上に伸ばした左手には小さな赤い実が一つ、主人に似たのか少々無鉄砲らしい小さな冒険者が持ち帰った宝物だ。余程疲れ果てていたのか、すぴすぴ寝息を発てる小さな頭は目覚める気配がない。
城下町で暮らす穏やかな性格だが人見知りの激しいハニーニャムルは、宮殿で暮らすピヨンを仲間として見ていない様だ。
国立公園の芝生や噴水の周りには飼い主に連れられたニャムル同士がいつも戯れているが、飛ぶのも遅く走るのも下手なピヨンを気に掛けるニャムルは居らず、ピヨンは俊の肩に乗ってその光景を見つめているだけだった。
兄弟も親も居ないピヨンを哀れに思っていた折、弟王子が己に似て上品なハニーニャムルを飼い始めた。
ニアキスと名付けられた雌ニャムルは各国の言語を操り聡明で、活字も理解し話題には事欠かない。
ピヨンの遊び相手として構っている内に、自分の方がニアキスに入れ込んだ事がある。然しピヨンを邪険にした事などなかったのだ。
けれどピヨンは違ったらしい。
凄いな、賢いな、そんなに早く走れるのか、そんなに高く飛べるのか、と。
俊がニアキスを誉める度に小さな綿毛は胸を痛めていた様だ。ニアキスを伴って日課の散歩に出掛けようと寝台に丸まっている綿毛へ声を掛けた時、ピヨンはお腹が痛いと訴えた。
お腹が痛いから嫌、ぽろぽろ涙を零しながら訴える様は冷静と名高いベルハーツを狼狽させ、たまたま通り掛かったシャナゼフィスを混乱させ、フィリスが誇る黎明騎士団を巻き込んだ騒ぎとなる。
獣医の診断結果は、過度のストレスによる『胃炎』だった。
『何か思い詰める事があったんでしょうね。幼児のハニーニャムルが炎症を起こすほど精神を擦り減らさせると言う話は、聞いた事もありませんが…』
小さな前脚で目元を覆い、顔を隠して丸まったピヨンを見つめ獣医は首を捻っていた。
毎日何かと宮殿を騒がせる第一王子が、終始無言で一度も外出する事無くピヨンの傍に付き添ったのは、王妃をも狼狽させた出来事だ。
ピヨンが回復して以来一度も、あれほど可愛がっていたニアキスの名を呼ばなくなった俊に、一体何人が気付いただろう。
程無くして、光の王子がガヴァエラの祖父の元へ賢く高貴な黄金色のニャムルを贈ったと言う噂が広がった。
「ちょっと前まで、うちの中でも迷ってた癖に…」
厨房へ迷い込んでは良い匂いに誘われたのか釜戸で毛を焦がし、地下へ迷い込んでは埃に塗れて身動きが取れず、屋上庭園まで迷い込めば広がる城下町を眺め目を回していたと思う。
その度にピヨピヨ泣きながら、一番初めに覚えた名前ばかり繰り返し唱えるのだ。
それはまるで神へ祈る様に。
『お〜じさま〜お〜じさま〜いたいにょ〜こわい〜』
どうしてニャムルがこんな所に迷い込んだのか、頭を悩ませる料理長に水を掛けられたピヨンは、目の前にあるケーキにさえ見向きもせず涙を零し続けた。
『お〜じさま〜お〜じさま〜さむいにょ〜こわい〜』
暗く埃臭い倉庫と化した地下室。
夜目が利くニャムルには何の障害でもない筈なのに、文献を求め訪れたザナルが見たのは、暗闇で震えている埃まみれの小さなニャムルだった。
か細い声で第一王子の名を呼び続ける声は、枯れ果てて今にも掻き消えそうだったと言う。
『お〜じさま〜お〜じさま〜たかいにょ〜こわい〜』
幼い内から高い所を好むニャムルは、成長すると天空を風の速さで駆けると言うが、ピヨンが屋上庭園の片隅で泣いていた時、小さな前脚で顔を隠し地面に顔を擦り付けていたのだと見張りの兵士は言う。
保護しようとした第二王子が掴み上げようとして噛み付かれた話は有名だ。
『たたいちゃや〜、こわい〜、いたいにょ〜こわいにょ〜』
料理長の差し出す国一番のケーキさえ口にしようとしなかった、警戒心の強い子供。
埃にまみれ繰り返し噎せながら、けれど差し伸べられた救いの手を跳ね退けた子供。
全ての物から身を守る様に、小さく小さく丸まって眠った子供。酷く庇護欲を刺激する寝言は、いつから姿を消しただろう。
今は安心して眠れているのだろうか。
「…だァれが、こんなに可愛いお前を叩いたんだ、ピヨン…?」
「すぴ、すぴぴ」
太古の昔『漫画』と呼ばれていたらしい絵物語に登場するカルマフォートの勇者は、伝説のカイザーニャムルを従え壮絶な冒険を続けている。
大きな漆黒の翼を持つニャムルは常に勇者と対等な関係にあって、互いに信頼し信頼されていて。
それがずっと羨ましかったのかも知れない。
他国の重鎮も広くニャムルを従えていると言う。有名なのはラグナザード宰相の飼いニャムルだ。
どのニャムルも身体能力に優れ、特にラグナザード宰相の従える黒翼のニャムルは世界で一匹だけの貴重種カイザーニャムルだと言われている。
「カイザーニャムル、か」
「すぴ」
「足が遅くても、巧く喋れなくても、足し算しか出来なくても。…お前が一番可愛いぞ」
「すぴ、すぴぴ、むにゅ、む〜」
前脚で目元を擦りながら唸る声に、起こしたかと見つめていれば、然し黄色い毛並みは再び穏やかな寝息を発て始め、
「…お〜じ…ま………ド…、…ぃめ…、しょ…むにゅ」
「ん?ピヨン、起きたのか?」
「ラ、むにゅ、ド…お〜じさま、れーめー、くちゅんっ」
何かもごもごと寝言を呟いている唇が可愛らしいクシャミと共に擦り寄ってくるのを抱き締めながら、そのタラコ唇が奏でる小さな囁きに耳を澄ませた。
「ラグニャザ〜ドじ〜…さま、れいめ…ん、ぅ…らむにく、すぴぴ」
「ラグナザードじいさま、冷麺ラム肉?
………腹減ってたのか、ピヨン」
緑馳せる虫の声を酷く近くに。聞いている様な気がする。
十六夜 目醒め知らず 呼吸忘れた銀糸の宝
乙女嘆き慟哭の果て 月が零した刹那の涙
太陽の慈悲 天空焦がし 銀糸を抱く
いざ惜別の刻 黎明よ
黄昏待たず 闇を招く
「………何だ、この歌」
誰かが何処かで奏でる歌を聞きながら、見上げた空は透けるほど蒼い。
「親父の野郎、また余所の人間を連れ込みやがって」
各地を巡る吟遊詩人は無国籍扱いになっている。
出入国の規制が厳しいラグナザードでさえ彼らは足を踏み入れる事が出来るのだが、貿易商ですら入国を認めないフィリスでは吟遊詩人の特例措置も事実上受け入れていない。然し、シャナゼフィス王権に入ってフィリスの閉鎖状況が大きく変わった、と言うのは歴史の授業で良く出る話である。
宮殿を抜け出しては城下町の学院に生徒として紛れ込んでいた俊は、授業の都度シャナゼフィスを讃える教師達にいつも不貞腐れたものだ。
誉れ高き精霊王も息子にとってはただの人でしかなく、何かある度に泣きながら頬摺りしてくる中年を『自慢の父』とは呼びたくない。
下町の子供達が『王様の息子になりたい』と言う度に、身分を隠していた俊はぷるぷる震えたものだ。『王妃様の娘が良かったな』と言う言葉はまだイイ。
父の武勇伝は母を口説き落とした事だけだと俊は半ば本気で考えている。
左頬に涼やかな緑の感触を、右頬に照りつける太陽の熱を、左腕にふわふわした毛並みを。
認めて寝起きの瞳を瞬かせた。
「良く寝たなァ、…寝てる時も超絶可愛いなんて、流石俺のピヨン」
欠伸を噛み殺しながら自由の利く右手で頬を撫でる。左腕の上に小さな頭を預け体を丸く縮めた綿毛が、柔らかそうなタラコ唇をむにゃむにゃと蠢かせている。
知らず知らず弛んだ笑みが零れた。何か美味しいものを食べている夢でも見ているのだろうか。
空には燦然と輝く太陽、僅かばかり西へ傾いてはいるものの、未だその威光は衰えない。庭園を我が物顔で飛び回る虫が吟遊詩人に負けない大音声で合唱している。
「暑ィし煩ェし、ピヨン寝てんだろーが、ちィーとは黙っとけ」
起こさぬ様に抑えた声は芝生を駆ける穏やかな風に奪われた。けれどまるで俊の愚痴を聞き届けるかの様に、青空を流れる純白の分厚い雲が太陽を覆い隠し、湿度を伴う暑さにも負けない虫達は暫しの静寂を呼び寄せる。
願いが通じた事に僅かだけ気を良くした男は満面の笑みを浮かべ、汗が滲む首の裏へ手を当てた。
「…ぶつぶつ出来てそう、汗疹ちゃん的なアレコレが。誕生日近いからかなァ」
ぽりぽりと掻けば痒みは増すばかり。欲望に負けて掻きむしれば、振動でピヨンの眠りは妨げられてしまうだろう。
芝生の上に伸ばした左手には小さな赤い実が一つ、主人に似たのか少々無鉄砲らしい小さな冒険者が持ち帰った宝物だ。余程疲れ果てていたのか、すぴすぴ寝息を発てる小さな頭は目覚める気配がない。
城下町で暮らす穏やかな性格だが人見知りの激しいハニーニャムルは、宮殿で暮らすピヨンを仲間として見ていない様だ。
国立公園の芝生や噴水の周りには飼い主に連れられたニャムル同士がいつも戯れているが、飛ぶのも遅く走るのも下手なピヨンを気に掛けるニャムルは居らず、ピヨンは俊の肩に乗ってその光景を見つめているだけだった。
兄弟も親も居ないピヨンを哀れに思っていた折、弟王子が己に似て上品なハニーニャムルを飼い始めた。
ニアキスと名付けられた雌ニャムルは各国の言語を操り聡明で、活字も理解し話題には事欠かない。
ピヨンの遊び相手として構っている内に、自分の方がニアキスに入れ込んだ事がある。然しピヨンを邪険にした事などなかったのだ。
けれどピヨンは違ったらしい。
凄いな、賢いな、そんなに早く走れるのか、そんなに高く飛べるのか、と。
俊がニアキスを誉める度に小さな綿毛は胸を痛めていた様だ。ニアキスを伴って日課の散歩に出掛けようと寝台に丸まっている綿毛へ声を掛けた時、ピヨンはお腹が痛いと訴えた。
お腹が痛いから嫌、ぽろぽろ涙を零しながら訴える様は冷静と名高いベルハーツを狼狽させ、たまたま通り掛かったシャナゼフィスを混乱させ、フィリスが誇る黎明騎士団を巻き込んだ騒ぎとなる。
獣医の診断結果は、過度のストレスによる『胃炎』だった。
『何か思い詰める事があったんでしょうね。幼児のハニーニャムルが炎症を起こすほど精神を擦り減らさせると言う話は、聞いた事もありませんが…』
小さな前脚で目元を覆い、顔を隠して丸まったピヨンを見つめ獣医は首を捻っていた。
毎日何かと宮殿を騒がせる第一王子が、終始無言で一度も外出する事無くピヨンの傍に付き添ったのは、王妃をも狼狽させた出来事だ。
ピヨンが回復して以来一度も、あれほど可愛がっていたニアキスの名を呼ばなくなった俊に、一体何人が気付いただろう。
程無くして、光の王子がガヴァエラの祖父の元へ賢く高貴な黄金色のニャムルを贈ったと言う噂が広がった。
「ちょっと前まで、うちの中でも迷ってた癖に…」
厨房へ迷い込んでは良い匂いに誘われたのか釜戸で毛を焦がし、地下へ迷い込んでは埃に塗れて身動きが取れず、屋上庭園まで迷い込めば広がる城下町を眺め目を回していたと思う。
その度にピヨピヨ泣きながら、一番初めに覚えた名前ばかり繰り返し唱えるのだ。
それはまるで神へ祈る様に。
『お〜じさま〜お〜じさま〜いたいにょ〜こわい〜』
どうしてニャムルがこんな所に迷い込んだのか、頭を悩ませる料理長に水を掛けられたピヨンは、目の前にあるケーキにさえ見向きもせず涙を零し続けた。
『お〜じさま〜お〜じさま〜さむいにょ〜こわい〜』
暗く埃臭い倉庫と化した地下室。
夜目が利くニャムルには何の障害でもない筈なのに、文献を求め訪れたザナルが見たのは、暗闇で震えている埃まみれの小さなニャムルだった。
か細い声で第一王子の名を呼び続ける声は、枯れ果てて今にも掻き消えそうだったと言う。
『お〜じさま〜お〜じさま〜たかいにょ〜こわい〜』
幼い内から高い所を好むニャムルは、成長すると天空を風の速さで駆けると言うが、ピヨンが屋上庭園の片隅で泣いていた時、小さな前脚で顔を隠し地面に顔を擦り付けていたのだと見張りの兵士は言う。
保護しようとした第二王子が掴み上げようとして噛み付かれた話は有名だ。
『たたいちゃや〜、こわい〜、いたいにょ〜こわいにょ〜』
料理長の差し出す国一番のケーキさえ口にしようとしなかった、警戒心の強い子供。
埃にまみれ繰り返し噎せながら、けれど差し伸べられた救いの手を跳ね退けた子供。
全ての物から身を守る様に、小さく小さく丸まって眠った子供。酷く庇護欲を刺激する寝言は、いつから姿を消しただろう。
今は安心して眠れているのだろうか。
「…だァれが、こんなに可愛いお前を叩いたんだ、ピヨン…?」
「すぴ、すぴぴ」
太古の昔『漫画』と呼ばれていたらしい絵物語に登場するカルマフォートの勇者は、伝説のカイザーニャムルを従え壮絶な冒険を続けている。
大きな漆黒の翼を持つニャムルは常に勇者と対等な関係にあって、互いに信頼し信頼されていて。
それがずっと羨ましかったのかも知れない。
他国の重鎮も広くニャムルを従えていると言う。有名なのはラグナザード宰相の飼いニャムルだ。
どのニャムルも身体能力に優れ、特にラグナザード宰相の従える黒翼のニャムルは世界で一匹だけの貴重種カイザーニャムルだと言われている。
「カイザーニャムル、か」
「すぴ」
「足が遅くても、巧く喋れなくても、足し算しか出来なくても。…お前が一番可愛いぞ」
「すぴ、すぴぴ、むにゅ、む〜」
前脚で目元を擦りながら唸る声に、起こしたかと見つめていれば、然し黄色い毛並みは再び穏やかな寝息を発て始め、
「…お〜じ…ま………ド…、…ぃめ…、しょ…むにゅ」
「ん?ピヨン、起きたのか?」
「ラ、むにゅ、ド…お〜じさま、れーめー、くちゅんっ」
何かもごもごと寝言を呟いている唇が可愛らしいクシャミと共に擦り寄ってくるのを抱き締めながら、そのタラコ唇が奏でる小さな囁きに耳を澄ませた。
「ラグニャザ〜ドじ〜…さま、れいめ…ん、ぅ…らむにく、すぴぴ」
「ラグナザードじいさま、冷麺ラム肉?
………腹減ってたのか、ピヨン」