運命に導かれた二つの闇
空が『青い』ものなのだと知ったのは、いつの頃だったろう。月よりも大きく輝く『太陽』を見たのは、いつだっただろう。
潮風に紛れた濃い緑の匂い、人よりもずっと小さな虫の脈動、何処までも澄んだ風は穏やかに、穏やかに。
あれこそ至上の楽園ではないか、などと。確かその時、そう考えたのかも知れない。
「空は、─────暗い」
朝も昼も夜もずっと、この国から見る空はいつも同じ色をしている。
「─────空は灰色だ」
けれど『神』は言った。青空だと。
「………」
人が近付いてくる気配がする。
「あ、おいっ!そこのデカイ奴、お前は逃げんなよ!」
「そこのでっかいやつ、あっちいけ〜」
「違う、あっち行ったら困るぞピヨン」
ああ、黒だ。
澱んだ灰色ではなく、何処の国でも同じ、夜の色。
「…俺の事か」
「お前以外に誰が居るんだ馬鹿野郎。…ったく、この町の人間はどいつもこいつも巫山戯けやがって、声掛け百人目にして漸く巡り合えたぜ村人A。
─────逃がさんぞ」
「おまえ、ぴよんのトトかえせ〜。ぴよんのトト、かくすな〜」
「待てピヨン、お前の飯はさっき食べて無くなっただろ」
見慣れない毛色のニャムルが、恐らく威嚇しているのだと思われる台詞を吐きながら近付いてきた。
随分走り回ってきたのか、額に薄く汗を滲ませる少年は従えるニャムルと同じ、この国では酷く珍しい出で立ちだ。
「ぴよんのトト、もうないにょ。ぴよんのトト、たべた」
「タイ焼き売ってなかったもんなァ、あんなしょぼい焼き菓子5個じゃ足りねェよな…」
「ぴよんのトト…」
随分感情豊かなニャムルだと思う。
濃茶の瞳を潤ませて俯く様は庇護欲を刺激するに充分なものなのだろう、異国の少年は目に見えて狼狽え始めた。
「わァわァ、ごめんピヨン!俺がノイエと間違われてばっかで、誰からもまともに相手して貰えねェからお前に不自由させちまってんだな、ごめんな、ごめんな」
「腹を空かせているのか、ニャムル」
「にゃんこ、ちがう。ぴよん、だいしょうにん」
「俺のピヨンは五万ベネラを八万ベネラにまで吊り上げた世紀の大商人なんだ。ただ可愛いだけのニャムルと一緒にすんな。失礼な奴だぜ、デカ男め」
随分下にある黒い目が睨め付けてくる。黄金色のニャムルへ向けられている眼差しとは違い、全てを拒絶している様な瞳だ。
けれどそれをそう感じさせない何かがある様に感じられる。
「…ノイエではない黒髪の子供が、こんな所で何をしている」
「お前だって髪の毛真っ黒じゃねーか。然もその格好…海賊か?山賊か?!」
「鎧を纏う人間が賊に見えるのか」
「いや、RPGっぽい展開を期待してみた。俺らはマグネスカレータに乗れる駅を探しながら、ついでにリヒャルトを探してるんだ」
「りゅーと、まいご〜。りゅーと、ひとりぼっち〜」
「お前、こんくらいの身長で、緑の目ェしてて、ミルク入り黒煎茶色の髪の毛を括ってる奴見なかったか?」
少年が己より僅かに高い位置を指し示し、長い三つ編みの黒髪を右頬辺りで掴む。
察するにどうやら保護者だろうが、それ即ち迷っているのはリヒャルトと言う人物ではなく、目前の少年とニャムルの方だろう。
「…目的地は何処だ」
短く息を吐き問えば、眉を寄せた少年が睨む様に見上げてくる。
どうやらそれは癖の様だが、この町では余り誉められた癖とは言えない。
「セントラルっつー所、お前知ってんのか?」
「中央区に何の用がある」
「え」
「ゆ〜えんち、ぴよん、ゆ〜えんちいくにょ〜」
些か狼狽を顕にした少年が口を噤むのと同時にニャムルが答えた。娯楽施設は確かにセントラルの隅にあるが、見た所余り裕福そうとは言えない子供がおいそれと足を運べる場所ではない。
口を噤んだのは羞恥からだろうか。
「ぴよん、きっぷかう〜。えきべんよりトトがすき〜」
「マグネスカレータは、現在のガルマーナでは利用出来ない」
「えっ、そうなのか?」
「先日起こった暴動を知らんか」
「何かノイエがどうのこうの言ってた奴が居たけど…」
「首謀者はストラから追放されたノイエの男。ガルマーナ地下中枢系統に爆弾を仕掛け、起爆した」
「時限爆弾かっ?!」
「起爆装置の詳細は知らん。だがそれによって現在のガルマーナ交通機関、並びに電力機関は機能していない」
「何か良く判んねェけど、つまり機械が壊れたから直るまでどうしようもねェって事か」
「だから、─────暗い。」
もう一度、見上げた空は先程よりも暗みを増していた。
「町が?」
「町も、人も」
「ふーん」
宵闇に溶ける黒髪の少年がつられた様に上を見上げ、凄まじい音を発てた腹を抱える。
その音に目を向けれは、都合悪げな目とかち合った。
「…聞かなかった事にしてくれるかィ」
「…付いて来い」
「何処に?怪しいおっさんには付いて行くなって、親…じゃなく弟が煩いんだけど」
「子供を拐かした所で俺に利益はない」
「しゅんさま、せくはらするやつ、ぴよん、やっつけるにょ。でっかいのあっちいけ〜、たんそく、あっちいけ〜」
「待てピヨン、アレは短足じゃねェぞ。…認めたくはないが、そこそこ長い方だ」
「たんそく、ちがう?でっかいの、あし、ながい?しゅんさまより、ながい?」
「いや、俺には負けるけどな。それに今更、別の村人探すのは御免被りたいし…アレで我慢しよう?」
内緒話にしては堂々としている会話に振り返り、同じ場所から動かない一人と一匹を僅かばかり睨む。
「俺は『でっかいの』でも、『アレ』でもない」
「だってお前の名前なんて知らねーもん。なァ、ピヨン?」
「ぴよん、ぴよん。しゅんさま、しゅんさま。おまえ、むらびとえー?」
どうやら飼い主よりも二ャムルの方が礼節を弁えているらしい。
小さな前足で自分と主人を交互に指差しながら自己紹介を終えたらしいニャムルが、今度はこちらを指差してくる。
「………シェイドだ」
「それが名前か?」
「カイ=シェイド。…好きな様に呼べ、無理に覚える必要はない」
「かい、せ〜ど。ぴよん、おぼえた〜。かい、せ〜ど。おまえ、かい〜」
「この野郎っ、足が長いだけでなくピヨンから一発で覚えて貰えるなんて何処までも恵まれた奴め!
…お前なんて村人Bって呼んでやる。もしくはカイカイだ、けっ」
「ニャムルの方が賢い様だな」
「…売られた喧嘩は買わねェぞ、今は所持金が心許無ェからな」
「かい、トトおごってくれるにょ?ぴよん、トトたべるにょ?」
「やめろピヨン、そんな可愛い仕草すんな、あんな男見んな、目が腐るだろー」
宵闇の足音が近付いてくる気配がする。もうじき世界を夜が包むのだろう。
誰が望まなくとも、誰かが拒絶しようとも、必ず。
「直に陽が落ちる。空腹を抱えて夜を明かすつもりか」
「騎士は食わねど黒煎茶、っつー諺を知らんのかテメー」
「…聞いた事も無い」
「食後に飲む熱々の黒煎茶を、空腹でもまるで今食事を終えたばかりと言わん態度で味わうくらいが男なんだ、ボケ。
一度冒険に出たらエルボラス見つけるまで帰らん俺を舐めんなよ」
少年が話す言葉は紛れもなくラグナザード公用語であり、世界で最も使われている言語だ。
それは間違いない筈だが、会話の半分以上が意味不明だった。最早それは異国語とさして変わらない。
訛りの強いノイエ族語以上に不可解だ。
「8区にエルボラスは居ない。子供が野垂死にした所で、飢えた野犬に食われるだけだ」
「俺は十七歳だぞこの野郎、来月には十八歳なんだからな。若者を敬え」
「俺は二十三だ」
「充分おっさんじゃねェか、………カッツィーオと同い年かよ」
「しゅんさま、としうえ?かい、しゅんさまにけいご、つかえ〜」
やはり、ニャムルの方が賢いらしい。
「かつお、ぴなたにけいごつかう。ぴなた、しゅんさまにけいごつかう。
しゅんさま、ぴなたより、としうえ。かつお、かい、いっしょ。けいごつかえ〜」
「ニャムル族にも年功序列が根付いているのか」
「としうえ、けいごつかう、とーぜんにょ」
沈黙した少年を見遣れは、痙き攣った笑みが向けられる。
「…だ、そうだが?」
「御馳走になります、カイ君。」
お世辞でも友好的とは言えない目だ。