『あの星の光は、もうこの世には存在しない星の遺産らしい』
『ロマンがあると思わないか』
『例えば、今は俺達を憎む人が居るとして』
『もしかしたら百年後には、俺達を讃えてくれる人が居るかも知れない』
『…あの星の様に。』
人たるや、如何に脆弱な獣か。
引き継がれし本能を知識なる鎧で覆い、名詞を失えば直ちに迷い、立ち止まる。
人たるや如何に哀れな獣だろう。
義務を失えば虚ろな脱け殻、己が為すべき使命ばかり模索し、いずれ死ぬ獣。
人たるや、儚く脆い真昼の月が如し。
赤。
赤い背中から噴き出す紅、叩き付ける雨。
温度も感覚もない。
『Don't afraid, angel.』
心配するな・と。
何度も繰り返される声、冷たい雨に撃たれていても、温かい。そう、感じた気がする。
まるで、不死鳥に抱かれている様だった。
「っ」
悪夢だ。
繰り返し魘され、目覚めると曖昧になってしまう光景。悪夢以外の何物でもない。
「…兄様」
いつの間にか寝ていたらしい。
甘えた声音で呼び掛けた先、無人の自室を認めて涙を零した。知っている。自分は疎まれているのだ。
本当はずっと前から判っていたのに、気付かない振りをしたかった。
愛してくれる人は居ない。
なのに気付かぬ振りで縋り、疎まれた。
消えてなくなりたい。
けれど孤独なまま死にたくない。
何処に行けば救われる?
『Don't afraid.』
優しい声だった。(まるで覚えていないけれど)(ともすれば)(実在しない夢の住人だとしたら)
何の対価なく守られた記憶がないから、あれが夢である筈がない。(経験した事もないのに見る夢など有り得ないと)(言い聞かせる事で期待している)(これが現実の出来事だと信じ、疑いたくないから)
「日本に、行けば」
方法はある。
今の今まで考えた事もなかった方法が、今ではこれ以上ない最善の方法だと思えた。
顔も知らぬ父親。
見下してきた父親と言う名の男が。
如何に卑劣な人間であろうが、責任を押し付けてやれば良い。
勝手に産んだ癖に育てる事を放棄した親達へ、これは仕返しだ。愛されなかった事を恨んでいる訳ではない。仕返しと言う名の大義名分があれば、此処から旅立ってる。
「兄様にはセカンドが居る。ババアには家がある。…何で俺だけ」
孤独の寂しさに慣れて尚、その痛みは消えない。耐えて耐えて蓄積してきた痛みは恐怖となり、気づいた時には、自分の手には羨望しかなかった。
羨ましい、疎ましい。他人が全て幸せそうに見える。羨ましい、羨ましい、憎ましくてならない。
今ならば、あの小さな島国に神の子が足を踏み入れた理由が判る。狭く息苦しい筈の島国は、太陽が最も早く昇るのだと。
敗戦国にも関わらず急速に発展し、平和な表情の人間が暮らしている。銃も戦争もない。
「…はー。風呂っつーのは何でこう極楽かねぇ」
誰も居ない大浴場は静まり返り、夜間のライトアップも何処か物悲しい。
そろそろ人が集まり賑わうのだろうが、親睦会に合わせた無料公開は零時からなのでまだ余裕がある。
「良し、泳いじまえ。………っぷは!ぶしししし!ブラブラしやがる!痛ぇ!」
腰ほどの水位を一気に端まで泳げば、ものの数秒だ。広い広いとは言え、貸し切りとなると持て余す。人間とはそんなものだ。
「…つまんね。高坂の野郎、まさか俺を探してねぇのか。サボってやがる。…畜生、普通逃げたら探したくなるだろ!フニャチンが!」
叩き付けた水面が飛沫を上げ、ザバザバと重力に沿って降り懸かる。
ずぶ濡れのまま無言で縁に背を預け、波紋を描く臍の下を見つめた。やがて、ゆっくりと波を止めた水面に映る艶やかなライトイルミネーションに、憮然とした己の哀れな顔。
悲しい。
悔しい。
寂しい。
羨ましい。
嫌われてしまう役目を選んだのは自分なのに、悲しくて堪らない。
もっと上手な方法を選べなかった事が、悔しくて堪らない。
カルマと言う唯一の安息場を捨てたのは自分なのに、寂しくて死んでしまいそうだ。
けれど相変わらず何の変わりなく戯れ合う仲間達が、羨ましく妬ましく、いっそ死にたくなる。
『いっつも逃げてばっかなんスよ俺。性根が負け犬なんスかね。逃げて逃げて、後悔パネェとかどんだけ馬鹿かっつー話でしょ?』
『なのにやめられない』
『多分、性分なんスよ。つか運命?…運命なんざ信じてねぇけど。…兄貴!何か面白い話ないっスか?俺の話つまんねーし』
『そうは思わないが…俺に面白い話をしろと言ったのは、二人目だ』
『もう一人は誰っスか?』
『俺の半分』
いつも、感心するほど回りくどい言い回しをする男を二人、知っている。一人からは逃げ出して、後悔から目を逸らし続け、良く似た別人に面影を見出した。
『半分、っスか』
『母親だ』
『あ、成程。彼女かと思ったっス』
『面白い話と言うのは難しいな。人を楽しませる話と、自分が楽しい話のどっちかでまず悩むだろう?』
『どっちでも良いっスよ。小難しい事考えるんスね、兄貴』
『そうか?』
『っスよ。…強いて言えば、俺的には兄貴にとって面白い話の方が気になるっス』
『そうか。じゃあまず目を閉じて、空を見てごらん』
回りくどい言い回しが好きな男だった。
まさか年下だなどと考えもせず、いつしか父の様に慕うほど、彼は優しかったのだ。
ひたすら甘やかし、狡さを感じさせず甘えてくる。強かな策略に嵌り言いなりになってしまう事を嫌だと思った事など、ただの一度も。
『…日本語って奴ぁ難けぇ。目を閉じたら何も見えねっスよ。谷村の昴が教えてくれるんスよ』
『Sure, open your eyes slowly.』
ゆっくり目を開け、と。
何の疑いもなく従い、見上げた空はいつもより多くの星が見えた。
繁華街のつい最近まで廃ビルだったビルの屋上とは思えないほど、鮮やかで。
『すっげ…』
『眩しさに慣れると、見えるものも見えなくなる。それは人間の防御と言えるが、守ってばかりでは手に入らないものもあると言うのは、穿ち過ぎかな』
『マジ兄貴は詩人になれるっスよ。言葉の魔術師とか名乗ったらカッケーんじゃないっスか』
『あの星の光は、もうこの世には存在しない星の遺産らしい』
知識としては知っている仮説に、皮肉めいた賞賛を宣ってしまった口を塞ぎ、喉仏を叩く。
そんなつもりはなかったが、どう考えても今のは嫌味だ。自分から会話を望んでおいて、何が言葉の魔術師、馬鹿にしている。首を絞めたら、少しは可愛げのある台詞だけ選べるだろうか。
『ロマンがあると思わないか』
けれど傍らの男はコンクリートの上、佑壱が敷いたパーカーを綺麗に畳み胡座を掻いた膝に乗せ、気にした様子はない。
気付いていないのか・と、安心させると同時に、逆に気遣ってくれているのかも知れないと考え、恐縮するしかなかった。
『例えば、今は俺達を憎む人が居るとして、もしかしたら百年後には、俺達を讃えてくれる人が居るかも知れない』
『大抵そんなんばっかっスよ。暗殺されるくらい憎まれてたリンカーンも坂本竜馬も、今や英雄っス。忠臣蔵なんか仇討ちが美化されてんスよ。理由知らなきゃ、ただの大量殺人でしょ?なのに戦争は悪』
『そうだな』
ヨシヨシと頭を撫でられると安心する。後悔も自己嫌悪も忘れて果て、ゴロゴロと猫の様に甘えるばかりだ。
たった一ヶ月前までは他人だった男に、こうも懐いた理由が、身代わりと言うだけではない、と。いつか自信を持って言える時が、訪れるだろうか。
『儚い人の生涯だが、確かにそこに存在したんだ。平等に全人類が、望み望まざる苦楽を須く経た先に、死を迎える』
『ん』
『善人も悪人も、その一点に違いはない』
『…だったら俺は、馬鹿でも良いか。いずれ死ぬなら、有りの儘に生きようと思いまス』
『そうだな。…でも出来るなら、後世で英雄と言われたくないか?悪人より善人でありたいと、誰もが考えるんじゃないか?けれど、人によっては身の丈に合わない善をしようとして失敗し、悪と呼ばれてしまう』
『見栄っ張りだもんなぁ。そっか、無理に善人面しようとすっから、失敗すんのか…』
『だから無理せず、イチが言った様に有りの儘、何度も後悔しながら生きていくのも一つの人生の在り方だろう。成功するか失敗するかなんて、結果が出るまで判らない』
闇に溶ける漆黒の髪に、キラキラと光が反射した。まるで深い銀色の様に艶やかに、キラキラと。人工的な光も月の光も何の隔たりなく、全てを反射させている。
『…あの星の様に。』
ああ、確かにロマンティックだ。
あの星の様に、人間から賞賛される為に光っている訳ではなくとも、感じる方は空を見上げ一喜一憂し、感傷に浸る。
星の立場からすれば、何と下らない行為だと鼻で笑うかも知れない。もしかしたら、あんまり見るなと照れているかも知れないのだ。
星の気持ちを確かめる術があっても、あの星が最早存在していないとしたら、知る方法はなく。
『兄貴…いや、総長。要も裕也も健吾も、愛想ねぇし目上に対する礼儀ねぇタコっスけど、見捨てないでやって下さい。勿論、俺もなんスけど』
『そう言や、いきなり殴り掛かってきたな』
『す、すんません!あ、いや、でもアレがあったから兄貴と知り合えた訳でっ』
『うん、そうだね』
『あ、ダメっスよ総長。言葉遣いは偉そうなくらいが丁度良いっつったでしょ。ゴルァ、早よ飯作れ!みたいな』
『それじゃ亭主関白!みたいな。…うちでそんな事を言ったら、俺も父も確実に沈められる』
『沈め…って、誰に?』
『母ちゃんから、風呂に』
『マジっスか』
『実際一度やられて、以来泳げないんだ』
『パネェ!マジパネェ!総長のお母様コエーっスね』
あの頃は楽しかったなぁ、などと。年寄り染みた事を考えれば、憮然とした自分の顔が、歪んだ。
ポタリと滴った水滴で水面に波紋が現れ、ゆらゆらと水鏡が揺れている。
それを見ているだけで、意味もなく泣けてきた。ポタリポタリがいつしか、ポタポタと。間髪入れず次から次に、際限なく。
「どうしよう、マジ情緒不安定過ぎる。しょっぺぇ水が止まんねぇ」
「また泣いてやがる」
「どうしようもなく寂しい。胸が張り裂けちまう…」
「はっ。何処にンなピュアな胸があるんだか、パンパンの筋肉しか見えやしねぇ」
ぴたり。
濡れた髪を掻き上げ俯いたまま硬直すれば、溢れ出る涙も嘘の様に止まった。
暫く水面を凝視していると再び静かな水面に己の顔が映り込み、背後に、キラキラとイルミネーションを反射させるブロンドが映り込んだ。
当然の様に。
呆然とする間抜けな顔の向こう側、ヤンキーの見本と言わんばかりのヤンキー座りで頬杖を付いた男が、そんな不作法をしそうにない貴族めいた顔立ちをそのままに、
「探して欲しそうだったから敢えてシカトしたら、餓鬼みてぇにめそめそしやがって。図体デケェ癖に何だテメェ、中身は少女かよ。キモイスペック備えてんな」
「…テメー、人様の入浴シーンを一部始終覗き見した事を自白しやがったな。上等だ、セクハラで訴えてやる」
肩越しに振り返り睨みつければ、何とも奇妙な表情の日向が軽く仰け反る。何だと細い眉を寄せた瞬間、
『身長差は大切ょ!男前受けの場合、たまに段差のファインプレーで生じる上目遣いにギャップ萌え!攻めが狼になったりならなかったり!ハァハァハァハァ』
『はぁ、そんなもんスか…。総長、ちょっとその上目遣いって奴やって貰えませんか』
『ウフン☆』
鋭い目つきで見上げてきた俊を思い出し背に悪寒を走らせながら、縁に両手を付いてジッと日向を凝視した。
「…何だよ、濡れたまんま近寄んな」
「ギャップ萌え…」
「はぁ?何で俺様がテメェに萌えなきゃなんねぇんだ!ほざくな馬鹿が!俺はリアリティの欠片もねぇBLなんか認めて、」
素早く口を塞いだ日向が立ち上がるので、反射的に足首を鷲掴んだ。
「おい、今テメー………BLっつったか?」
「…聞き間違いだ」
縁に足を掛けゆっくりにじり寄れば、後退ろうとした日向が滑り転ぶ珍しい光景を見る事となる。