「逃げ足は早い」
無言で振り払った手は宙を掻いた。
既にこちらを見てもいない無関心な呟きに、何故か恥ずかしい気分に陥った男は小さく咳払いし、眼鏡を押し上げる。
濡れた唇を白いハンカチで優雅に拭い、
「乾燥知らずが売りの柔らかい唇に、許可なくキスとは。ご存じでしょうが、私の唇は高いですよ」
「何、期待を裏切れぬ性分らしい。廃棄物の影から強かに見つめられれば、些か想定外の行動に出る事もあろう。怒りは諫めろ」
「おや、いつから言い訳がましくなられました」
「お前ほどの男が気づかなんだとは言わせん。あの目は著しく望んでいた。萌を寄越せと」
「殴らせろ」
完全なる仕返し、嫌がらせだろうが。
悲鳴とも歓喜の叫びとも取れる奇声を放ち走り去っていった太陽は、想定外の事態に凍り付いた二葉を激しく罵りながら拳を握り締めていたと記憶している。
『二回目のチューっ、十日天下に酔いしれとけー!』
俺は被害者だ。
口汚い胸中を何とか宥め込みつつ、痛みのない頭痛に倒れ込みそうだが、今は考える事を放棄しよう。
表情一つ変えず舌を突っ込んできた神威だけでも面倒だと言うのに、大河ドラマを見ていたらAVだったと言わんばかりの少年の目は、確かに怒りよりも喜びに満ちていた…様な気がしないでもない。
「暫く休養休暇を頂けますか。頭痛が酷くて」
「俺に土産のポストカードを見せびらかしたばかりの男が何の冗談だ。喜べ、早急に遂行せねばならん仕事がある」
「ええ、ええ、誰かがブッ壊したリブラ内の強制可変修正を指示し可及的迅速に正常配置を整え、尚且つ素顔も本名も謎に包まれた組織内調査部長を見つけ出し取り押さえながらも、新入生歓迎会及び合同親睦交流会を恙無く進行させ幕引きを迎えるべく全力で職務に励みなさい、と中央委員会会長は仰せですね。何様だコラ」
「俺様生徒会長の愛らしい黒猫は、賞賛に値する理解力に恵まれた様だ。褒美の口付けをやろう」
無表情な男から喉を撫でられ、貼り付けた愛想笑いを返す。頭痛が殺意に変わりそうだ。
「おや」
敷地内のスピーカーから流れていたBGMが、静かなクラシックからフィーリングミュージックへ擦り変わった。
神威が足早に校舎へ向かうのを追い掛けながら、携帯を開き独自のアプリケーションを展開する。
「また風流な。賛美歌はアコースティックギターですねぇ。第三離宮エリアΨで非常回線が開いています」
「展開コードは」
「残念ながら、ガーデンスクエア中核のデータベースには警戒の記載がありません」
「面白い事を。現にシステムがこうして作動していて、履歴がないとはな」
「組織内調査部長の探査でセキュリティーレベルを上げてらした為、端末解放の周波数を辛うじて突き止めた様ですが…この端末で逆探知するには、もう少し距離が」
「キングダムサーバーが警戒していない所を見るに、俺と同等の権限を持つ者の仕業と見える」
「ですがクロノスリング端末の周波数ではなく、これはクラウンですねぇ」
普段のセキュリティーでは間違いなく掴めなかっただろう、これは異常事態だ。中央委員会指揮下にあるサーバーが、役員にしか判らない警告を発している。
「マスターリングの信号を受信しました。コードは未だ不明」
蜩の鳴き声。
これは下院会長が敷地内全域のセキュリティーを掌握した時に、警告として流される合図である。不審者や風紀出動時にも流される為、ただの蝉の鳴き声だと思ったら間違い。警戒レベルは最高だ。
「直ちに警戒指示の取り消しを通達します」
「いや、引き続き異端コードの解析を優先しろ。下手な騒ぎは面倒だ」
「陛下、所で指輪と端末はどうなさいました?ピアスもないみたいですが」
「先程まで風呂に入っていてな。携帯はジェネラルフライアに奪われた」
「成程、貴方は馬鹿でしたか」
職員、役員は速やかに生徒を引率し、職務の妨げにならないよう誘導せねばならないと定められており、今頃、各地では密かに慌ただしくなっているだろう。
「念の為ご確認致しますが」
「俺ではない」
「でしょうね、この私に事後連絡で無謀なモードチェンジを行う様な方に、会長らしい行動が出来るとはとてもとても…」
「クロノス端末の最終起動履歴を」
「はい。…おや、クラウンリングによる警戒指示が発布される直前、ですねぇ」
画面を愉快げに見やった二葉は片眉を跳ね上げ、ボタンを押した。
「発信地はジュピター、アコースティックギター。益々面白い方だ。神帝の権限を奪ったんでしょうか」
「現クロノス及びクラウンのマスターリング複製は不可能だ。お前も知っていた筈だが」
「さて、左席委員会長は誰かさんより読めない方ですから、不可能を可能にしても不思議では、」
校舎東側、普通科領域と体育館領域を繋ぐ渡り廊下を目前に、コンプリート表示を灯したモバイル端末を認め、目を見開いた。
「へぇ…よもや想像だにしていなかった事態です」
「探査が完了したか。エリア近辺のカメラ映像を転送しろ」
「この私にもそれは不可能ですよ。周辺一帯に特一級セキュリティー配備を確認、セントラルサーバーのブラインドカーボンコピーを発見しました」
「ほう」
「履歴が残らなかったのもエラーが発生しなかったのも、これが要因です。然も昨日今日作られたものではない」
「そうか」
「誰の仕業か、中央情報部に指示を?」
「良い。…見つけた」
表情一つ変えず、渡り廊下の上方を見上げた男の銀糸が靡く。助走なく壁を蹴り上げた長身は、まるで鳥の様に跳ね上がり、軽々と壁を登っていった。
「スパイダーマン…などと言ってる場合ではないですか。どうやらお馬鹿は感染する様ですねぇ」
ゴミ箱の中だろうが燃え盛る本能寺だろうが、同じ我儘マイペースなら極々平凡なでこっぱちを追い掛ける方が、どれほど楽しいだろう。
「こんな時間まで起きていると、お化けが出るぞ」
コメカミが痙き攣る感覚に、全身で息を吸い込んだ。
落ち着こう、崇敬な心持ちが必要な場面だ。怖くはない。怖くはないが、何だろう、この殺意は。
「俺の様な不浄な魂が、闇の中から忍び寄る。ゆっくり、気配なく、気付けば目前に…」
何処ぞのラジオ局でホラードラマでも放送したらイイ、と。犬歯を剥き出しにしたまま精一杯笑おうとしている勇者は、残念ながら残虐なテロリストにしか見えない表情だ。
「はァ、クソ印のオヤズィが忍び込んでるにょ。此処は左席会長である僕が率先して通報しなきゃ。全く、警備員のイケメン達は何をやってるざますっ」
太陽の携帯で801コールをしたテロリストは般若の顔で、キョトンと首を傾げたテロリストの父親と言えば、何処となく寂しそうだった。
「つまらん。もう大人になってしまったのか、お父さんは悲しいぞ。夜中に一人でトイレに行けなかった可愛い息子は、深夜徘徊するまでにグレた」
「まだ11時前ですけど」
「…こんな恐ろしい学校は辞めろ。勉強がしたいならクモンに通えば良い」
「俺を幾つだと」
「良いか、九九が出来る様になってから反抗しなさい」
「クックドゥー!」
感電した表情の父親へ素早く背を向け、逃げる態勢を取った。
「中退断固拒否!母ちゃんにチクってやるァ!」
「待て息子」
「パパイヤ!」
光の早さで駆け出せば、階段を転がる様に降りた先、外への非常口が見える。だがこの時間帯は自動施錠されている筈だ。
「クロノ〜スックエアァ!開けゴマァアアア!」
『コード:萌皇帝を確認、ご命令を』
「お願いでございますっ、ドア開けてェ!腐った蜜柑…男子がぶつかっちゃうん!」
『進行方向確認、直接上全てのロックを解除します。………94%、』
『オーダー優先度更新、100%。クラウン権限により只今の指示を却下しました』
アニメ声の機械音声は、萌の欠片もない冷たい機械音声に割り込まれた。激突寸前でドアを蹴り上げ、オタク宙返りにより事故を回避する。
緊急時にも萌え場の馬鹿力が発揮する様だ。
「何とした事かァ!おのれェイっ、機械までも反抗期とはァアアア!対オタク限定解除のツンデレシステムに感服満腹ゲップ!ゲフ」
「クラウンサーバーにそんな設定はないぞ」
「俺以上に腐れ果てた中央委員会めぇ!腐男子を苛める前に不法侵入の中年を対処しやがれェイ!」
「その不法侵入者が書き換えたんだ」
お化けが追い付きやがった。
ムカつきMAXで振り返り、突如パチッと音を発てた蛍光灯の元、消えては付くを繰り返す切れかけた灯りに照らされては闇に消える男を見たのだ。
「クラウンは犬にも従う。声紋認証、網膜認証、指紋認証だろうが気付かないんだ。…どう思う?」
「…親父、か?」
「間違えるな、お前は俺の子だ。秀皇じゃない、俺の子なんだ」
油断した、らしい。
脳裏で驚く誰かの声がそう囁き、情けねェ!と怒鳴る声も聞こえてきた。
「帰ろう、俊。此処は俺達の居場所じゃない」
「何があったんだ、父」
「お前は知らなくて良い。秀皇が与えた全ての記憶を忘れて、母さんの所へ帰ろう」
頭の中が掻き回される。
痛みなどないのに吐き気と倦怠感が襲った。
「俊」
父親だ。
紛れもなく見慣れた、息子のゲームを取り上げ、出張中に迷子で保護され迎えに行かされたり、一緒に歩いていると十中八九、息子より若く見られる、いつもの父親だ。
「父、」
「ぜんぶわすれなさい」
「…嫌だ」
時折、何の前触れもなく姿を現すもう一人の父親は、慈愛と自信に満ちていた。こんな、悲しい目などしない。
「クロノ、ス」
「忘れろ。お前は俺とシエの子だ。秀皇は狡い。嫌な事だけ俺に押し付けて、自分は幸せを掴み取ろうとしてる」
「クロノスライン…!」
「クラウンダークサイド・オープン」
『コード:マスターナイト確認、ご命令を』
「俊を連れて行く。サーバーから全てのデータを削除してくれ。…何も残らない様に」
砕けた石碑。
打ち付ける雨の中、赤い首輪を握り締めた濡れた黒髪。頭の中を知らない光景がフラッシュバックする。
『データパーフェクトクラッシュ了解。………99パーセ、』
『セントラルシステム・オールクリア、マスターナイトを強制削除』
『エラー。コード:ナイト確認出来ません。只今の命令は破棄されました』
頭が痛い。
頭が痛い。
割れる様に痛い。
人間たる言語を全て忘れた中、爪先から這い上がる恐怖は幻の痛みに呻くしか出来ない。
「俊」
「ぁ、う…ぅ、あ、ぁ…ァ」
「息を吸え、」
「邪魔をするな」
体が浮き上がった気がする。
優しく呼び掛ける声は鋭い声に阻まれ、頭の痛みは消えない。
「随分、面映ゆい事を言う。邪魔だと?管理システムを改竄した者を処分するのは、俺の職務だ」
「俺の子から手を離せ」
「離した所で、実の子を苦しめる親の元へは渡せない」
「悪魔が、もう一度殺してやる…!」
「セカンド」
鋭い牙を剥き出した怒り狂う黒髪に、音もなく姿を現した艶やかな黒髪が靡き落ちる。
叩き落とす様に背へ乗り上がった二葉のしなやかな体躯が押さえ込む男は、然し凄まじい力で抵抗した。
「おや、この方が天の君の父上でしたか?確かに顔立ちは…」
「ガァア!俊を返せ、それは俺のものだ!」
「困りましたねぇ、長く保ちそうにありません。おや、右肩が外れました」
耳馴染みのない嫌な音が響き、言葉の割りに冷静な二葉の右腕が垂れ下がる。
「左腕まで外れる前に、鎮静剤の投与をと思いますが」
「優れた才覚をあまねく知られた魔王らしからぬ名案だな。果たして効果があろうか」
「少なくとも、息子さんには効きませんねぇ」
声無き呻きに脂汗を流す腕の中の黒髪を見つめ、乱れた銀糸をそのままに瞬いた長身は、二葉へ背を向けた。
「お前に任せる。保護者だ、丁重に扱え」
「畏まりました。身柄はどうなさいますか?」
「前言の通りだ。片付き次第明朝、交流会の最終確認を西園寺執行部と取り纏めておけ。左席一同には暫しの労いを」
「須く、仰せのままに」
また、懲罰棟に客が増えるらしい。
怒り狂う左席副会長の姿が目に浮かび、何とも言い難い心境だ。