「…変ですね、めぼしいものが見当たらない」
流し見た書類の束を一つに纏め、重ねた束の山に放る。膨大な数の資料を全て読み踏まえた上で、もう一度独りごちた。
「ナイトは何をなさるおつもりなのか」
頼まれもせず勝手に動いたのは自分だが、これでは手助けにも足手纏いにもなれない無駄骨、自己満足にもならないではないか。
針に糸を通す様な集中力を以て読み漁った資料の山を恨みがましく睨めば、今まで空気と化していた背後から声が掛かる。
「憂いを帯びた悩ましい表情が、斯くも見る者を惹き付ける美貌であろうと承知している。だが、王の痛ましい姿は見るも辛い」
「汝に手鏡を貸しましょう。どの顔で言ったのか確かめておあげ」
類い希な身体能力を誇る最強の男は、何故か表情筋だけ死滅していた。いつか献身的に表情育成を試みた事もあるが、あれこそ真の無駄骨だ。ピクリとも動かない顔中の部品に、憤った幼い自分は確かに吐き捨てた。
馬鹿が、喜怒哀楽も判らないのか。
その目障りな顔を二度と見せるな。
今となれば何と子供じみた捨て台詞。然しそれが口を衝いたつまらない悪口だと知っているのは自分だけで、言われた当人は以降、15年以上に渡って己の顔を隠している。
自らの面構えがどれほど神に愛された美貌か、未だに理解していない。
現に、
「許されよ。王の手鏡に俺の様な下等人種を映すなど、冒涜の極み。如何に命令と言えど、我が塵芥ほどの命と引き換えられるならば、従えぬ身の反逆をひらに容赦頂くよう…」
これだ。
ただの軽口で切腹されては堪らない。かと言って根っからの乙女男は、どの少女漫画の主人公よりも祭美月を崇拝し、その美しさを恥ずかしげもなく褒め称える。
とんだありがた迷惑だ。大抵の人間は馬鹿にされている様にしか思えないだろうが、大真面目な黒装束にそんな事を言えば、大惨事になる。確実に。
「つまらん事を言いました、忘れなさい。汝は命ごみ吾に差し出した事を覚えていますか」
「当然だ。この無価値な身が王の裨益に刹那たりと貢献出来うるならば、いつ果てようが悔いはない」
「人の話を聞いてますか、汝。吾のものを許可なく傷付ける事は何人も赦しません。汝自身であろうと同様に」
「…勿体ない勅命だ。俺の全ては王の為に在る。何時如何なる刻も、生死の境なく王のものだ」
「ええ、その通り。汝のものは吾のもの、吾のものは吾のもの。判っているなら二度と軽々しく死ぬなどと口にせぬ事です」
「御意、しかと心得た」
スネオ、本当に判っているのか。
深々と頭を下げた男の旋毛は、黒い頭巾にすっぽり覆われている。知らぬ者が見ればただの変質者だ。
但し、通報する前にこの世から消されるだろうが。
「気になっていたのですが、汝は吾の性別を知っていますか?」
「無論だ」
網状になっている目隠しの向こう側が、キラリと光った気がする。もじもじ、両手の人差し指を擦り合っている長身が何を考えているのかなど、聞かずもがな、だ。
美月が警護を必要としない僅かな合間に、乙女チックな漫画や新書を読み更けている黒物体を、何度か見掛けた事がある。近頃では一年S組なる学級誌にハマっている様だが、決して美月には見せようとしない。
遠野俊による発案、発行のものならば、心配はないと目を瞑っているのだが…。
「時に、我が特別課外学科の生徒が、三年F組なる自費出版物を製作していると言う噂を耳にしましたが、汝は存じていますか」
「………そうか」
「汝の愚鈍さには好い加減慣れていますが、念の為、汝の意見も聞いておきましょう」
目に見えてビクビクしている黒物体に息を吐く。問い質されたらどうしよう、などと内心かなり焦っているのだろう心境が手に取る様に判れば、少しは気が紛れた。
無表情とは言え、決して彼の考えている事が判らない訳ではない。何せ仕草にまるっきり現れてしまう、難儀な性分なのだ。
本人は気付いていない様なので、敢えて口にはしない。美月が好きで好きで堪らない癖に、バレているとは思いもしないのだから、何と言えば良いやら。
「その書類に目を通し、訝しい箇所があるか確認なさい」
きょとんと首を傾げた様に見える黒頭巾から目を離し、テーブル一杯に山積みになっている紙の山へ手を向けた。心臓に手を当て後ろを見やり、密かにガッツポーズしている黒装束は、自費出版物の話ではなかった事に表情以外で安堵を示している。
表情筋以外は、必要以上に働き者の様だ。
「鷹翼中学校、並びにワラショク、嵯峨崎財閥、遠野総合病院の黙示録ならば拙いながら把握している」
「おや。見直しましたよ、流石は活字中毒」
「だが俺は、敢えて言わば遠野総合病院の前院長が気になるのだ」
まるで見当違いな意見を、すぐには理解出来なかった。早い内に流し見た総合病院の内部情報には、何一つ可笑しい所はなかった筈だ。数年前に他界した前院長のデータとなると、神憑り的なオペ技術で広く知られていた男と言う程度の記述だった様に記憶している。
「何故また、まるっきり方向性が違う事を」
「所詮愚かな俺の戯言だ。王の耳に入れる価値はない」
「老婆心ながら言いますので享受しなさい。自虐的な謙虚は不愉快に値しますよ」
良いから続きを聞かせろ、と目を眇めれば、目に見えてオロオロ挙動不審に体を揺らした男は、床の上にしゅばっと正座した。
昔から狼狽えるとこれだ。美月が怒っていたり不機嫌だったりすると、彼は必ず正座する。まるで飼い主に叱られた犬の様だ。
「…ルークより断然愛らしい」
「何か言ったか?命令ならば恐れ多くも聞き逃してしまった。もう一度命じて、」
「黙りなさい」
「…」
お口チャック、の仕草を布で覆った口元で見せた男に唇を痙き攣らせる。駄目だ、笑ったら負けだ。
「それで、前院長…天の君の祖父君に当たる殿方の何処に疑問があるのです」
「…」
「汝には臨機応変と言う熟語が欠乏している様ですねぇ。喋りなさい」
「遠野龍一郎の死亡は臨時放送されたほどの未曽有の事態だったと記されているが、告別式が執り行われたのは、火葬の後となっている」
「ああ…そんな記述がありましたねぇ」
「つまり、告別式参列者の中に、当人の遺体を見た者は居ないのではないか」
それがどうした、と。
言い掛けて目を見張り、ちょこんと正座している黒装束を見た。
頭巾の下は、目映いばかりの金髪だ。
深い海を思わせるダークサファイアの双眸に、神の芸術と思わせる高い鼻梁と薄い唇が並んでいる。
「汝、長らく目にしていないので忘れていましたが、本来は…」
双生児として産まれた為に、産まれて間もなく捨てられた神の子。
「母はサラ=フェイン、父はキング=ノア…ならば汝の髪は、何故」
「顔も知らぬ母親の祖先がアジア系ならば可笑しい話ではない」
「そう…汝の兄は先天性疾患があります。けれどもし、本来ルークも黒髪だったとした場合」
「王、殺す価値もないグレアムなど我らにはどうでも良い話だ。望みならば直ちに消してくるが、」
「あれは吾同等…それ以上に聡明な男ですよ。オムライスにケチャップでチューリップなんぞ描き、ほのぼのしている汝が適う相手ではない」
雷に打たれた、と言わんばかりに大袈裟に両腕を開き、ピキンと固まっている黒装束に突っ込む者はない。
ひとたび仕事になれば果てしなく優秀な男だが、美月の前では自虐的で乙女チックな不審者だ。
「汝の妄想を真に受けてはおりませんが、万一、遠野龍一郎氏が生存していたとすれば、証拠隠滅したのは彼でしか有り得ない…と、言うのでしょう。然し証明出来ねば、一つの仮定ですよ」
「妄想…」
「何処を見ているんですか、鼻息が荒い様ですが」
「す、済まない、決して俺は、王はどの様な下着が気に入ってるのだろうかなどと不埒な想像はしていない」
「………残念でしたね、李。吾は上衣と靴以外は何も身に着けていません」
袷のチャイナドレスは踝までの長さで設えた一枚布で、腰のベルトも実は刺繍だ。赤と金を基調に仕立てられたドレスだけで、かなりの重さがある。
両サイドには腰骨からスリットが入っているが、内布の黒い絹が脚を隠している為に、ポロリの心配はない。
男が裸を見られようが構わないのだが、言わない方が良いだろう。何しろ、見た目だけなら美女の美月以上に、不審者は乙女なのだから。
「李、吾が汝にそう名付けた時、交換条件があった事は覚えていますか」
「条件?恐れ多くも王に、この俺如きが取引を持ち掛けるなど万死に値する大罪だ。絞首刑と銃殺刑のどちらが相応しいか判決を」
「では腹上死刑」
「何?」
「汝は本当に健全な男子高校生ですか?…そんな体たらくだから、いつまで経っても清らかなままなんですよ」
正座したまま首を傾げる童貞に舌打ちを噛み殺し、意味なく長い黒髪を掻き上げる。この仕草は老若男女問わず魅了する、サービスポーズだ。
容易く硬直した黒い物体が、鼻の辺りを押さえるのを認め幾分気を良くし、暫く仲良くしていた椅子から立ち上がる。
「いつになるか判らない汝の精通に就いて談議するのは、またの機会にしましょう」
「ネピア…ネピアは何処に…エリエールしかない、だと?」
「犯すぞゴルァ」
「…王?済まない、何か言ったか?」
「いえ。暑苦しい被り物を剥げば、少しは耳が近くなりましょう。顔を隠したがる汝らは、余程自意識過剰か対人恐怖症なんでしょうねぇ」
皮肉一つ、ティッシュを頭巾の鼻元に当てている天然が顔に似合わぬ可愛らしい仕草で首を傾げ、『ら、とは誰の事だ?』などと呟いているのは、無視だ。
この男の場合、馬鹿なのではなく救いようのない天然であるからにして、判らないのなら判らないままにしておいた方が面倒にならず済む。
「王だか王子様だか知りませんが、吾の奴隷になりたいのなら少女漫画ではなく青年漫画を読む事です。18歳になったからには、ベッドの下に十冊や二十冊隠していようが、誰から見咎められる事もない」
「お言葉を返す様だが王、少年漫画は暴力的な描写が多く瞳に光がないのだ。俺は鋭い集中線より、淡い花柄のトーンの方が…」
また在らぬ方向を見上げ、感嘆の溜息など零している男から完全に顔を逸らし、貼り付けた微笑で開いたドアを叩き閉めた。
「…洋蘭の爪の垢でも飲ませてみるか」
いずれ性奴にしてやる、などと宣誓した所で高確率で『何の制度だ』と尋ね返されるだろう光景が脳裏を過ぎり、指の骨をパキッと鳴らす。
「王、今の閉め方は力が籠もり過ぎていた様に思う。美しい手に傷が付いては死ぬに死に切れん、速やかに手当てを」
いっそ股間を蹴り上げてやろうかと思ったものの、如何せん防具のない股間が不安定この上ないので、耐える事にした。
…ボクサーパンツでも仕入れよう。
態とらしい『印』を目にした瞬間の頭痛は、決して思い込みではない、と、切実に訴えたい。
静まり返った離宮の部活棟には、壁に凭れ掛かったまま額を押さえ動かない自分と、混乱しているらしい風紀委員が数名。
「閣下、陛下の御命令は如何に…」
「何故待機なさっておられるのです?」
いよいよ不安に耐え切れなくなったらしい彼らは、二葉が小さな溜息を漏らしたのを耳敏く察知するなり、一斉に言い募ってくる。
説明するだけ無駄だ、と頭の中の皮肉は鉄壁の微笑で覆った。忽ち陶酔めいた表情で我を見失った生徒らはもう、命じずとも一生待機しそうな雰囲気だ。
刃向かわれると潰したくなるが、此処まで従順且つ扱い易いのも、如何せん頼りない。二葉を慕う者達は男女問わず謀った様にマゾヒストばかりで、今更どうしようもない事だ。
「気が逸る気持ちは判りますが、暫く様子を見ましょう」
さりとて、様子を窺った所でどうなるものでもない。いっそ夜に見た白昼夢だと思い込みたかった長兄の目的が何であれ、答えは何ら変わり映えしないのが現実だ。
「成程、急いては事を…ですね」
「…まぁ、幾ら満を持しても確実に無意味なんですがねぇ」
自分にとって叶冬臣なる人間は、神威よりも余程、苦手な男なのだから。