2.ラグナザード社会主義連邦帝国
全世界人口の実に三割強に値する二十億人が住まうと言う首都ヴァルヘルムを有す、世界で最も広大なラグナーク大陸はその全てがラグナザード帝国領首都ヴァルヘルム圏である。元々他国であった周辺諸国や別大陸の自治領だけに限らず、広大なラグナザードそのものを『区』として幾つかに分類し、それぞれ各区に領主相当の人間を据えては居るものの、それら全てヴァルヘルム市セントラルに在る『中央議会』の一役員でしかない。
全領土の議案は必ず中央議会を通し、最終的に皇帝の調印を以て可否決定が下されるのだ。つまり領主と言う名の区画監査役である。彼らは『課長』と呼ばれていた。
セントラルは名の通りヴァルヘルム市の中央に在り、その区域は大地さえ見えないほどの人工土で埋め尽くされ、同じ形をした高層の建物と実に様々な機械でひしめきあっている。
人々の頭上を太く長い透明なパイプが幾つも走り、些少の電力とパイプ内に敷き詰められてた永久磁石から発生する磁力で走る『マグネスカレータ』と呼ばれる電動車が、終日運行していた。
公共機関であるマグネスカレータよりもまだ遥か上空では、魔術国ベスタウォールで錬成された魔導器を用いた飛行船や車が飛び交っている。
それを尚も上空から見下ろせるのは、セントラルの名の通り中枢に聳える巨大な建築物、『中央議会塔』だけだ。
地下五十階、地上百五十階の実に二百階を誇る世界最大の建築物は、一昔前までラグナザード城と呼ばれていた。
今も尚、ラグナザードの人々はその巨大な塔を皇城と呼ぶが、正式には皇居ではなく議事堂と呼ぶ方が正しい。
天守閣とも呼ぶべき議事堂の最上階は名実共に皇帝の住居であるが、作らせた本人である前皇帝ロード=レヴィナルドは終生その居住区へ立ち入る事が無かった。
外交と言う名の領地拡大へ心血注ぐ事に生涯を費やしたレヴィナルドは、居城の一階層下にある執務室に腰を据えていなければ愛剣を握り戦場を馳せているだけの生活を繰り返していたと言う。
王妃がまだ首都で暮らしていた時も主無き皇居へ住まう事は許されず、別に作られた屋敷で帰らぬ主人を待つ日々を送っていたそうだ。
果たして、中央議会塔の一室にその男の姿は在った。
「…それで、何か沙汰はあったのか?」
硝子張りの巨大パノラマから眼下に広がるセントラルを一望し、背後の部下へ振り返る事無く問い掛ける。
「…いえ、恐れながら、フィリス領北東のバスティール樹海と思われる地点に到着後、着信不通となってから未だ報告無しの状況であります」
「送信波の届かぬ圏外であるのか、磁場による機器障害か。…または、見破られたか」
「まさか!高々東の島国如きに、我がラグナザードの技術を駆使した『カメリア』が見破られる筈がございません」
「ふ…だと良いがな」
灰色掛かったダークブラウンの髪を気怠げに掻き上げ、目前の光景から目を離すと、男はその粗野で鋭利な美貌に僅かだけ笑みを浮かべた。
それは嘲笑とも自嘲とも取る事が出来る曖昧な笑みだ。
「その高が小国に我がラグナザード軍が撤退を余儀なくされたあの忌まわしい過去を、よもや忘れた訳ではないだろうな。ファルクート軍事局長?」
「…お戯れを。出陣した全ての兵が死して尚、永劫忘れまいと誓ったあの屈辱をどう忘れられましょうか」
「カメリアの動向はもう良い。黎明の手に落ちようと、一度分解されてしまえば全てのメモリを破壊する仕組みだったな、あれは」
「仰せの通りでございます、ジークフリード閣下」
ラグナザード宰相の名で呼ばれた男は、その鋭利なサファイアの瞳を緩く細め、長い足を組み替えながら机上のキーボードを叩いた。
「ベルハーツ第二王太子の情報を事前に得られなかったのは惜しいが、焦る必要はない」
「光のベルハーツなど恐れるに足らず。例え3年前のあれがベルハーツであろうと、同じ轍を二度踏む様な我らではございません。刺し違えてでも必ずや彼奴の首を、」
「…誰が殺せと言った?」
軍人らしいファルクートの真っ直ぐ伸びた背へ、囁く様な低い声が掛かる。
「お目通り賜りまして光栄至極にございます!」
振り向かずともそれが誰であるのか理解したファルクートは、実直な顔に狼狽を滲ませながらも、尊敬をありあり浮かべて素早く向き直り、深く敬礼した。
ジークフリードの鋭利な表情に僅かだけ穏やかな色が浮かび出たらしい。
「この様な狭苦しい所へ態々お越しにならずとも、お呼びであれば何処へなり馳せ参上すると申したでしょう、神帝陛下」
「未だ私にその呼称は相応ではない筈だ、ジーク」
白金で作られた顔半分覆い隠す仮面の下で、薄い唇が皮肉げに吊り上がる。
「皇帝代理など名目のみ。陛下は皇太子にして既に陛下であらせられます」
「その薄ら寒い口調もやめろ、笑うに笑えん」
「ふ。レヴィナルドの喪明けなど待ってやる謂われはないが、このまま大人しく過ごし終えても四十九日はもう間もなくだ。形ばかりの戴冠式だが、来月には名実共にフェイン新皇帝陛下の誕生を各国へ示せる。
好い加減慣れて貰わねば困るな、兄上殿。」
「そう思うなら、せめてその間だけでも表向きは亡き父親を偲ぶ面をしておけ」
葬儀にも参列しなかった男の台詞とは思えず、宰相は肩を竦めた。
つかつかと近付いてきた長身がジークフリードの目前にある広々とした机へ腰掛け、その銀に輝く長い髪を乱雑に机上へ這わせている。
神帝と名高い男の所作は限りなく粗野だが、然し全ての行動が逐一絵になった。腹違いの自分もそれに似た誉め言葉を受けるが、男性的に整った容姿のジークフリードでは『粗野で凛々しい』とは言われても、『粗野で凛々しくその上美しい』にはならない。
「黙っていれば吸血鬼の王さえ魅了するその無駄な美貌を活かして出来れば妃を娶り、婚礼の儀も兼ねて頂ければ言う事無しですが?」
「下らん。雌を所望するならばお前が娶るが良い。何頭連れ込もうが、私は反対しない」
「間に合っている、と言うより持て余しているからお断わりしておこう。尤も、この身を神帝以外から拘束される気はない」
ラグナザードの冥府揺るがす威光を須く知らしめんが為に、と。胸に手を当てて仰々しく頭を下げる男に倣い、それまで傍観していたファルクートも胸へ拳を当てる。
帝国が誇る名将二人から絶対服従の意を示された男は、然しそんな事には興味がない様だ。
先程まで宰相が佇んでいた窓辺を一瞥し、立てた片膝に預けた腕へ顔を埋めている。
「絡繰りなどに頼るから失策を生む。所詮、人が作り出したものに人を越える事は出来ない」
「カラクリではなくカメリアとお呼び願いたい。脅しを掛けた所でフィリスの欠席は目に見えている。カメリアの不手際はともかく、伝書で済ませずに初めからラグナーク艦隊を送り込んで、自衛団のみと言わずフィリス人全て捕虜にしてしまえば楽だったものを」
「応じなければそれで良い。フィリス永世中立国が欠いた程度では、我がラグナザードの絶対なる威光は揺るがない」
「フィリスをどうするつもりなんだ、兄上殿」
「さて、…どうしようか」
怠惰な態度で、けれど微塵の隙も窺わせない態度で硝子の向こう側を眺める男は、まるで他人事の様に呟いた。
レヴィナルドが唯一求めて手に入れられなかった小さな国を、無表情な男がどうしたいのかなど誰にも判らない。
ただ、フェインは最も近くからそれを視たのだ。
歩兵の名を持つ先陣の猛将だけが、最も近くからそれを見上げたのだ。
「絶対神であると信じていた皇帝が一瞬で無へ還るほど、あれは神々しかった」
「月日を経て間違った方向へ美化されたに違いない。レヴィナルドは王の成れの果てでしかなく、フィリスの作ったつまらない幻影に踊らされただけ」
「事実、私と共に居た魔王でさえ手も足も出なかったろう」
「…ちっ、嫌な事を思い出させる」
大陸の中枢から世界の覇者を握る兄弟は、視た。太陽の後光を纏う金色の塊を。
『退け、蛮族の民共よ』
繰り返し思い出されるのは、その圧倒的な存在感を秘めた声だけだ。
恐れなど知らなかった。地に膝が伏す事など有り得なかった。
「あれを手に入れ、…我が前に跪かせられたなら。どうなるだろうな」
繰り返し思い出されるのは、その圧倒的な支配力を秘めた声だけだ。
『我が黎明の裁きを、畏れるならば』
あの目ともう一度出逢う事が出来たなら、………どうなるだろう。