その騎士は誰よりも強く気高く
─────古の昔。人の世は繁栄を極め、栄えた文明は声無き働哭の果てに世界崩壊へ導いた。
空は黒く澱み、大地が唸りを上げながら世界を混乱へと陥れる。
悍ましく永き地震も軈て幕を下ろし、生き残った人々は己等が手で作り上げてきた文明の果てを見るのだ。
澱んだ空は光を失った。
大地は僅かながら懸命に生きていた緑を破壊し、沈黙した。
陸地の半数は海へ沈み、残った大地も間もなく枯渇する。
絶望の果て、それでも人は生きる事を諦めなかった。
自らの手で破壊したものの意味や重さ、その現実を受け入れる事が出来なかったのかも知れない。
手と手を取り合い地獄の最中に在っても、人は新たな世界を求め歩き出す。
気が遠くなるほど永い時を要した。
永い時を経て、人も世界も姿を変えた。
そして絶望は伝説と成り、今や幼子の子守歌としてひっそりと残っている。
ああ 罪深き人間ぞ 己が過ち忘却の彼方
ああ 枯れた大地よ 人間の過ち赦す勿
太陽の怒りを 大地の働哭を 精霊の慈悲を
忘れし人間の王は 等しく裁きを受ける
褐色の肌、白亜の肌、目鼻立ちがはっきりした容姿、皆同じに見える容姿。
実に様々な人種で溢れる通貨交換所は、珍しい国の貨幣を携えた軍人風の美丈夫を前にして俄かに沸いていた。
「フィリス銀行券、で、間違い無い様ですね。只今レートの確認をしておりますので、もう暫くお待ち頂いても宜しいでしょうか」
「ガヴァエラ通貨に変換せずに参ったこちらの不手際ですから、覚悟はしております。余り時間が掛かる様でしたら、この金細工を買い取って頂ける所を紹介して預けませんか」
青年が差し出した見事な彫り物が施された金の腕輪を手に取った職員は、ほうっと恍惚めいた息を漏らす。
「これは、余り見掛けない意匠の作品ですね。細身ではありますけど、宝石商で取り扱われているどの金細工よりも見事です」
「そうですか?私が作ったものなんですけど、ラグナザードの方に誉めて頂けるなんて光栄です」
「これでしたら五十万、いや六十万ベネラは堅い。寧ろ僕が譲って貰いたいくらいだ」
職員の素直な賛辞に照れた様な表情を浮かべる青年の隣、頭にニャムルを乗せた金髪の異様に威圧感がある男が舌打ちを零した。
努めてそちらを見ない様に意識を逸らしていたらしい職員が、声もなく飛び上がる。
「おいリヒャルト、態々そんなもん売るなよ。お前が一生懸命作った奴じゃん勿体ねェぞ。売るんだったらピナタの鏡台からパクってきた指輪とかあるし」
「流石に人様の物を売ってはいけませんよ、殿下。それはあくまで黎明騎士団の団員を示す証なんですから、ラグナザードのお城に入れて貰えなくなっちゃいます」
「だったら黒煎茶はどうだァ。おい、そこの兄ちゃん、俺のおやつの黒煎茶だ。フィリスじゃ安モンだけど、この辺じゃお高いって聞いたぞ」
「こ、これはフィリス銘柄のリブルラムルではありませんか!こちらでしたらすぐにでも百万っ、いや二百万ベネラになります!」
「十杯飲んだらすぐになくなるんだぞ、それ。然も、倒したエルボラスを肉屋のおっちゃんに売ってやったお礼で貰ったモンだしなァ、それ」
「ラグナザードではフィリス産のリブルラムル豆は宝石より価値があるものなのです!」
「私の金細工より、黒煎茶の方が高級なんですか…」
リヒャルトの寂れた背中を無視し、興奮を顕にした職員一同から現金を受け取った男は勝手に外へ歩き始める。
頭の上で黒煎茶が紙に変わる様子を眺めていた綿毛の、『ぼうえきにょ』と言う中々に賢い一言。
「殿下、待って下さいよー。べスタウォールの変身具は髪と目の色を好きな様に変えられるだけで、全部が変わる訳じゃないんですから」
黒髪を金色に、黒い目を蒼眼に。
ただそれだけ変えただけでベルハーツ王子に変身した俊の中身は何一つ変わっていない。
玩具売り場にある様な変身道具だが、それなりの身長と両親から受け継いだ雰囲気がそれを全く感じさせていなかった。
然し油断は禁物だ。
黎明騎士団でも割と穏やかな性格であるリヒャルトだが、黎明騎士故にラグナザードが危険な土地である事は熟知している。
3年目の戦争では、二十歳だったリヒャルトも戦線に参加していた。
誰よりも鮮血に染まっていたが、普段は芸術を愛する平和主義者である。
「それにその変身具は充電式なんですよ。万一私が居ない時に電池切れなんて事になったら…。
殿下の黒髪が静かな夜よりも美しいとは言え、どの国でも大変珍しいものなのですよ。もしも凶暴なノイエ族と間違われて捕まったりでもしたら…」
「そン時はリヒャルトが助けろ」
「そんなぁ、私はカッツィーオと違って喧嘩とは縁遠い男なんですよー」
凶暴と名高い海賊の末裔である黒髪のノイエ族の間でさえ、『気違いリヒャルト』の名は有名だ。
それをフレアスロットの口から聞かされた記億がある俊は白けた目でリヒャルトを見遺り、握り締めていた札束を押し付ける。
「これで暫くは困んねェんじゃね?都会に出るぞ。遊園地がある、もっと大都会に」
「ラグナザードで最も栄えているのは、やっぱり中央区でしょうね」
ちゃっかりガイドブックを持ってきていたらしいリヒャルトが、煌びやかな歌い文句が羅列している風景写真を眺めながら目を輝かせた。
「はうつー、せんとらる?へぇ、やっぱリンドラウムとは大違いだな」
「りんどらーむ、ぴよんのおうち〜」
「偉いですねピヨン、フィリスの首都をちゃんと言えるなんて」
「まぁな、俺の愛娘だからな…。畜生、子供はどんどん大きくなるゼ」
親馬鹿二人がほのぼのと綿毛を撫でる。正しくはリンドラウム市街に住んでいるのではなくヴィーゼンバーグ宮殿で暮らしているのだが、そんな事はこの際無視だ。
「セントラルと言えば、世界最大の機械都市であると共に世界最速を誇るマグネスカレータが有名です。切符を買って駅弁をお供に、あっちへそっちへ乗り放題だそうですよ」
「ぴよん、きっぷかう〜。ぴよん、えきべんよりトトがすき〜」
「ニャムルは乗車科タダみたいですよ。然も途中のワースキー駅には、ニャムル弁当と言う人気商品があるそうです。良かったですね、ピヨン」
「マグネスカレータか…」
「ベルハーツ王子殿下!」
空を駆ける列車に二人が思いを馳せた時、前方から男の声が掛けられる。
「ベルハーツ殿下ではあらせられませんか!」
如何にも平民ではないと判る趣味の悪い原色の衣裳を纏う、腹が出たお世辞でもロマンスグレーとは言えない壮年の男は、俊の視線を受けて喜色満面を顕にした。
「いやいやいや、態々この様な場所へお出で下さいまして有難うございます!お出迎えが遅れました事、まずはお詫び申し上げますぞ!」
背後に従者らしき男を複数従え、道行く人々の嫌悪が滲む視線にもまるで構わず近付いてくる男は、大仰に腕を広げて声高に言う。
「ハゲあたま」
「何だ、あの親父」
「恐れ多くもフィリス第二王位継承者で在らせられるベルハーツ様に、名乗りもしないで近付くのは無礼ではありませんか?」
暴言上等のピヨンを頭に乗せつつ、怪訝げに眉を寄せた俊を庇う様に前に出たリヒャルトが笑顔ながら男を制した。
大袈裟に足を止めた男は深く頭を下げ、明らかに目前に居るリヒャルトではなくその後ろの俊へと視線を注ぐ。
「これは大変失礼しました。我輩は元ハスゲイル侯爵、ラズクートにございます。
殿下に在らせられては、幼少の砌に幾度とそのご尊顔拝見致しましたぞ!大きくなられて、黎明のベルハーツと言えば今や知らぬ者無しの英雄、我輩も鼻が高い!」
「ハゲイル〜。ハゲイル、ハゲあたま〜。ぴかぴか〜、ぴなたよりぴかぴか〜」
「ハスゲイル侯爵と言う事は、副団長の伯父上…?」
「フレアスロット=ストルムは我輩の妹を誑かした男の子供!奴の様な極悪人に黎明の名を名乗らせるとは、殿下もお人が悪いですぞ」
リヒャルトの言葉にフレアスロットの名を口にした男が、刹那痙き攣った表情を浮かべ俊に詰め寄った。
良く判っていないリヒャルトが僅かに眉を寄せるが、口を閉ざしている俊の口元には笑みが浮かんでいる様に思える。
それも、まるでベルハーツそのものの様な微笑が、だ。
「久しいな、ラズクート侯。貴方を最後に見たのは、十二年前でしたか」
「いやはや、あの様な惨事さえ無ければ殿下をフィリス国王にして差し上げる事が出来ましたのに…。
返す返す口借しい!
ベルハーツ殿下こそ太陽神アーメスの化身であると判らぬ馬鹿共の邪魔さえ受けなければ、アルザークの首などとうに落ちていたものを…ッ」
「何、ですって?」
リヒャルトの表情が青冷める。光を纏う王子の唇にはただただ笑みだけ、醜いものを見る様な蒼い瞳に気付いた者が一体何人居たのだろう。
「我輩は殿下の為を思って誠心誠意尽くして参ったのです!
幼い頃より聡明高く在らせられたベルハーツ殿下こそ次代フィリス王に相応しいと信じていたから、殿下の障害にしかならぬあの餓鬼を始末しようとしたと言うのに!」
「旅先から戻ったフレアスロットが助けていなければ、アルザークの命はなかったろう。そして今頃貴殿は、ベルハーツ派の筆頭を語りフィリス議会の実権を握っていた筈だ…」
歌う様な声音にリヒャルトから表情が消える。懐に隠し持っている短剣へ手を掛けるリヒャルトを制した俊が、ベルハーツ瓜二つである微笑を浮かべたままラズクートへ顔を寄せた。
人々は不穏な会話にただただ耳を澄ませている。
「誠残念でなりませぬっ、我輩が彼様な場所へ追いやられるなどと考えもしなんだ!」
「貴殿を国外追放した日、俺が言った言葉を覚えているか?」
「は?」
「『二度とその薄汚れた面を見せるな』」
ラズクートの赤ら顔が一気に蒼白していった。
「『次は大人しく寝た張りなんかしてやんねェぞ』」
囁きは他の誰にも届かない。
力を失った膝が崩れ、地に尻を落としたラズクートへ従者が駆け寄る。人々はただただ呆然と眺めているだけだ。
「残念でしたねぇ、ラズクート侯。兄さんは今頃、何処かで観光中ですよ…」
徴笑む顔が男を見下し、背を向ける。
表情を失ったままのリヒャルトがそれを追い掛けながらも、背後の男を振り返った。
「あの下衆野郎を放置するのか?私が今すぐにでもあの首、御前に献上してやる」
「行こう、リヒャルト。そろそろ入国手続きも終わってるだろ」
「然し…」
「ぴよん、ジジイのハゲあたまにおしっこしてきたにょ〜」
納得行かないのか翡翠の瞳を細めた男は、然し綿毛から頬を撫でられて一つ息を吐く。
冷徹な色合いを僅かに弱め、
「ほらな、ピヨンが立派に仕返ししてくれた。見れば笑っちまうから、振り返るな」
道理で肩が震えている筈だと、前を行く背中を一瞥し笑った。
「りゅーと、あしおそい。かつおより、おそい。はやくしろ〜はやくしろ〜」
「ピヨン姫がお怒りだ。全力で早歩きしろリヒャルト、短足って言われるぞ」
自慢けに胸を張っている様に思える綿毛が、パタパタと羽ばたかせる、音。
死ぬまで主人に忠実なニャムルが、許したのだ。きっと主人が望んでいない事を知っているから。
きっと、相手にするだけ無駄だと知っているから。
あの程度では穢れる筈もない気高い王子を、何よりも誰よりも誇りに思っているから。
「りゅーと、たんそく。りゅーと、おそい。こっちこ〜い、りゅーと、はやくしろ〜」
「はいはい…、─────仰せのままに。」
だから騎士である自分は、誰よりも強い小さな騎士の意思を尊重しなければならない。
「ピヨンは最近言葉遣いが宜しくないですねー」
「まァな、俺に似たのかな…」
「照れる所ではないと思いますよ、殿下」