精霊の国に立つ光の化身
「ああ、書いても捺しても終わらねぇ…」「副団長、次はこっちです」
フレアスロットがやつれた表情で執務室の机に噛り付いている。
「これみぃんな、破っちまったら気持ち良いだろうなぁ、ウァンコート…」
「そうでしょうね…ふふふ」
ウァンコートが心持ち白い表情で抱えてきた新たな書類の束に、開け広げたままの扉の向こう、ジムを兼用したサロンで思い思いトレーニングしていた上半身裸の騎士達が涙を飲んだ。
「…鬼だ。俺は団長を鬼だと思う」
「鬼は副団長の二つ名だろ。団長はアレだ、…悪魔だ」
「間違いない」
男の中の漢、と崇拝者が多いフレアスロットをあんなくたびれさせる人間は一人しか居ない。
本来ならば、王族としてヴィーゼンバーグ宮殿の執務室で有り余る仕事を片付ける傍ら、騎士団の職務もこなさなければならないベルハーツは、数日前からストラに出向している。
『あ、そうだストラに行こう』
そんなノリで皆の反対にも耳を貸さず、ストラ駄菓子百選と言うパンフレットを小脇にとっとと行ってしまった第二王子。
彼はデスクワークには全く役に立たないカッツィーオを拉致した。
いや、そこまではまだ良い。
『では、雑務を宜しく』
残された騎士達が山の如く積み上がった書類の束を片付けなければならなくなったのが問題だ。
「大体、何でいきなりストラなんだよ…」
「ラグナザードはどうすんだろ、団長。無視したらヤバいんじゃねーか?」
「こんな時にリヒャルトも居ないし…。俺らでも出来る仕事なんか高が知れて、残りは貴族階級の副団長とウァンコート小隊長に任せっぱなしなんざ、情けねぇ!」
「ロズシャン枢機卿の息子の癖に、リヒャルトの野郎っ。またどうせアトリエに引き籠もって裸の姉ちゃんでも彫ってんだろ!」
口々に怒りを顕にする彼らは、せめてトレーニングだけは普段の倍こなそうとこうして夜明けから鍛え続けている。
隆々とした筋肉を惜し気もなく晒し、騎士団宿舎の温度を著しく上げていた。暑がりのフレアスロットが朝から引っきりなしに流し続けている汗の原因は、恐らく彼らの筋肉だ。
「こ、黒煎茶、冷たい黒煎茶のお代わりくれー」
「嫌だな副団長、冷凍庫から出した氷が一瞬で蒸発しますよ…ふふふ、楽しいなぁ」
「エルニーニャ、エルニーニャに飛び込ませてくれー」
「王族以外がアーメスの湖に入れるのは、年に一回、建国記念日の祝賀祭だけでしょう、副団長」
「死ぬ。俺はこんな所で死ぬのか…。死ぬ時は戦場と誓い合ったのに…」
「ジャスパー様は腹上死しそうですよねぇ…」
脱水症状がフレアスロットをやつれさせているのかも知れない。
「そういや、アルザーク殿下も此処最近見掛けねぇな。お前らは?」
昼飯の為にトレーニングを中断した一人が漏らした台詞に、怒りを顕にしていた男達が次々首を傾げた。
「オレも見てない」
「先週は会ったぞ。会ったっつーか、宮殿の屋上からエルニーニャに飛び込んだ殿下の笑い声と団長の悲鳴を聞いた」
「先週なら、俺も確かエルボラス取りの罠に引っ掛かったピヨンを医者達が手当てしてる所を見た」
「あ、ボクも見たよ。陛下が泣きそうなお顔でアーメス像にお祈りしてた」
「確かただの擦り傷だったよな」
「団長がアルザーク殿下用の喪服を作らせて、アルザーク殿下から殴られてた所を見たぞ。アレは痛そうだった」
口々にアルザークの武勇伝だかピヨンの武勇伝だかシャナゼフィスのヘタレっぷりだかを囁き合い、その内の一人が黒と金の制服を羽織りながら息を吐く。
「ま、どうせまたガヴァエラにでも行ってんだろよ。それかバスティール樹海でキャンプ」
「あー、そうだろうな。エルボラス退治と駄菓子が殿下の生き甲斐だからなぁ」
「ボク、幾ら武装してたってバスティールで野宿なんかしたくない」
青冷めた一人の台詞に、皆沈黙した。
「あー、うん。昼間こそ大して危険じゃねぇけど、樹海にゃ夜行動物ばっか居るかんな…」
「ダークニャムルにエルボラス、バルフレアにカエサルゴーレム…何でフィリスみてぇな小さな国に、肉食獣が揃ってんだよ」
「ダークニャムルはハニーニャムルの天敵だからな、ニャムル飼ってる奴には近付いて来ねぇけど…」
獣の王エルボラス、神経麻痺の胞子を撒き散らし獲物を油断させ、炎の様な酸性の液を吐く肉食植物バルフレア、遥か昔に存在したとされるゴリラの末裔、強靭な腕力を誇るカエサルゴーレム。
並べ立てれば立てただけ、血の気が引きそうだ。
獣達は城下町にこそ現われないが、樹海へ迷い込んだ人間には容赦無い。
然し今や廃墟となっている空港に群れで生息しているカエサルゴーレムは、樹海から戻って来る俊を樹海の入り口まで見送って去っていく姿が度々目撃されていた。
濃い黄土色の毛並み、褐色の肌、盛り上がった筋肉の両腕。
見掛けた市民は皆腰を抜かし、
『じゃ、またなァ。今度はタンタラスの赤塩漬け味のうんめー棒持って来てやるょー』
通報を受けて駆け付けた騎士達は、気さくに手を振る俊を塩っぱい目で見守るしかない。
一際毛が長いカエサルゴーレムの雄は一族の王であるとされるが、俊を見送りに来るカエサルゴーレムの群れの一番先頭に居るのはいつも同じ毛が長い雄だ。
『あ?アイツか、昔エルボラスに足噛まれて倒れてた所を手当てしてやったら懐いてさー。たまに森の入り口まで俺を迎えに来たりしてんだって。
皆が見たらビビっからやめろっつってんだけどなー、ピナタにビビって町の中までは入って来ねェから大目に見てやれよ。
つか、元々アイツがエルボラス程度に負けたのは、俺がアイツをボコボコにしたからなんだけどな』
何処からどう突っ込んで良いのか判らない騎士一同は、エルボラスをエルボラス程度とほざく俊を崇拝した。
アルザークは剣を持たない。戦闘の武器は己の身一つだ。
剣の無い騎士に未来は無い、と言う諺も存在しているのに、王子ながら天晴れである。
バルフレアの吐液を腕に受けながら、ちょっぴり爛れただけで済んだ俊の無敵さにそれは益々加速した。
大半のバルフレアは俊によって引っこ抜かれてしまった為、現存している芽が成長するまで数年は安泰だ。
『バルフレアの葉っぱと胞子は薬屋、蔓は楽器職人、花びらは八百屋に売った。いやー、楽に稼げたなァ』
バルフレアの葉は胃薬、胞子は麻酔、蔓は弦楽器に重宝され、甘い香りと味が珍味に指定されている花びらは高値で取り引きされているのだ。
漫画でそれを知った俊はたった半月でバスティール中のバルフレアを引き抜き、さくっと売り払った。然も最近では宮殿の裏庭にバルフレアを栽培させているらしい。
「エリシア陛下は怖くないんかな、裏庭って陛下の花壇がいっぱいあれのに」
「怖いに決まってんだろ!エリシア様、きっとアルザーク殿下に気圧されて許しちゃったんだ」
「バルフレアが育つまで二年近くは安心だろうけど、育ったらオレらが陛下をお守りするぞっ」
「バルフレアは一気に増えっからな、小さい芽の内から胞子撒き散らしやがる」
「つか、たまに裏庭にダークニャムルが迷い込んでんの聞いたか?」
「宮殿の裏は湖挟んで樹海だからな」
「何か気になって来た!殿下が居ないっつーならピヨンも居ないんだろ?!」
「はっ、エリシア陛下が危険だっ」
慌ただしく駆け出して行った騎士達が去った後、書類の山にウァンコートがパタリと倒れた。
元々線が細いウァンコートはデスクワーク派だが、此処数日まともに寝る暇もなく執務室に閉じ籠もっている為、彼の体力は限界に達していたらしい。
「副団長…お昼ご飯は冷蔵庫の中です…」
「死ぬなウァンコート!今の俺は昨日の残りのカレーより素麺が喰いたいんだ!」
「ぐー」
「ウァンコートォオオオ!!!」
フレアスロットの悲痛な叫びを余所に、床の上で俯せのまま爆睡したウァンコートの向こう、開け広げたままの扉の向こうに人影が現れる。
「咲き咲き抱いてガイアの慈悲を、願い奉るは永遠の庇護」
歌う様な柔らかい女性の声が響き、淡い桃色の光がポツリポツリとウァンコートの周りに出現した。
血走った目のフレアスロットが全開の詰襟から胸板を晒したまま、握り続けていた万年筆と印鑑から手を離す。
「お疲れの様ですね、皆さん」
「これはっ、エリシア陛下」
制服の前を右手で掻き合わせ、ガタッと立ち上がったフレアスロットが机に脛を打ち付けながら足を踏み出した。
流れる様な銀の髪を巻き上げ金簪で纏めた美女は、白肌を一層引き立てる新緑色のドレスを翻し倒れ込んだウァンコートの背を撫でる。これには流石のフレアスロットも焦り顔だ。
「陛下、ご心配お掛け致しまして申し訳ありません。ですが余り魔力をお使いになるのは、」
「持って生まれたものを有効に使わず、持ち腐れのままではガイアの名に恥じます。宜しいのよ、ストルム卿」
「然し…」
ガヴァエラ法王サロムの愛娘エリシアは、前々々代ベスタウォールの大魔導師カシルーシャの娘を母親に持つ。生まれながらに大地神ガイアの祝福を受け、癒しの魔力を備えていた。
「恐れながら、…ベスタウォールの魔導師は等しく短命です」
エリシアの母ミリクァーサは二十年程前に亡くなったが、祖父カシルーシャはエリシアが生み落ちる前に亡くなっている。
魔導師は皆若くして亡くなる為、天涯孤独だったミリクァーサがサロムの元へ嫁いだ時まだ16歳だったにも関わらず、その二十年後孫の顔も見ずに逝った。
「お母様は、バルハーテで幾度も祝福の光を民へ与えてきました。お父様が止めようと、死に逝く直前まで」
「陛下、」
「ベルハーツは気付いています。陛下とザナル閣下、そして信頼の置ける貴方しか知らない筈のこの力を」
血色が良くなったウァンコートの頭を持ち上げ、ドレスが汚れるのも厭わず床に座り込んだエリシアはその膝にウァンコートの頭を乗せる。
白い手でウァンコートの額を撫でてやりながら、最早消えている桃色の光を目で追う様に宙を眺め、
「お母様の光は白でした。まるでバルハーテ雪山の様に美しい」
「…そう、ですか」
「私は一度この命をアーメスへ差し出した罪人。愛しい我が子を失いたくない一心で、18年前、私は己の命もフィリスもガイアでさえも捨て去ろうとしました」
柔らかい声音が白雪の様な頬から零れる。慌ただしい足音と共にやってきた宮殿の近衛兵がエリシアに敬礼し、フレアスロットに頭を下げた。
続いて入って来た長身にフレアスロットは直ぐ様片膝を付き、左拳を右手に押し付けた忠誠の礼を取る。
「エリシア、まだ体調が優れないのにこんな所まで散歩に来たのか」
白の詰襟、金と赤の刺繍が施されたそれはフィリスでただ一人が纏う事を許されているものだ。
流れる様な金糸の長い髪を腰元で結い、長い金の睫毛で縁取られた青い双眸に微笑を浮かべた美しい王者。
日向の将来像がそこに在った。
「ストルム、世話を掛けているね。ベルハーツはまだ子供だから無邪気に行動してしまう」
「いえ、勿体ないお言葉でございます、シャナゼフィス陛下」
「ベルハーツだけではない、がね」
冷え染みる様な声音に痙き攣ったフレアスロットは、目を伏せたまま微動だにしない。
「陛下」
「さァ、エリシア。部屋に戻って休んでいなさい。君だけの体では無いんだからね」
エリシアの宥める様な声が短く響いたが、ほのぼの微笑んだシャナゼフィスに促され近衛兵と共に退出していく。
残ったのは健やかな寝息を発てるウァンコートと、そのウァンコートの真横に歩み寄った白い革靴だ。今更ながらウァンコートを叩き起こしたかった。
「リヒャルトの姿が見えないね、ストルム」
「お、恐れながらリヒャルトなら団長殿下と共にストラへ、」
「バスティール樹海からアルザーク号が無くなっていたのは、捜索願いを出すべきかな?」
ああ、もう。
美形の無言の威圧は大嫌いだ。特に光に満ちた金髪美形となれば、
「それとも俺の可愛い俊たんを誘拐した犯人として首を刎ねられたいのか、…貴様は。」
下手したら、処刑されてしまうだろう。