長閑過ぎる白亜の昼下がり
長閑とは到底呼べない白と金を基調とした豪華絢爛なシエスタの朝は、他区のどれと比べても…騒がしい。「ぅむん、…むにょ?」
「おはようございます」
「ん、ぉはにょ」
煌びやかな街では地味な方に入るだろうとある宿のとある部屋では、今正にボリボリ尻を掻きながら寝返りを打った男が半ばベッドから落ち掛けた態勢で目をおっ広げた。
元来、好印象を与え難いその悪人相は眉間に目一杯皺を寄せ、寝乱れ捲った寝間着から腹を丸出しにしたまま数瞬沈黙し、
「きゃァアアアァアアアアア!」
乙女顔負けの悲鳴、一つ。
ぽかん、と目を見開いた女性を余所に蹴り落としていたブランケットを体へ巻き付け、真っ赤な顔を両手で隠した様だ。然し半分丸出しの尻は全く隠せていない。
「あら…」
恥ずかしげに顔を隠した女性は、然し指の隙間からばっちり尻を凝視している。こうなれば恥ずかしいのは尻を出した方だ。
「ちょ、男の一人部屋に上がり込むとは勇敢なお嬢さんんん!!!朝から俺がエルボラスになってしまうじゃねェかァアアア!」
「まぁ、エルボラスですか?うふふ、こんなにお美しいエルボラスならば皆が喜んで身を差し出しましょう」
にこにこ微笑みながら僅かに顔を赤らめた女性が無遠慮にブランケットを剥ぎ取り、銀髪蒼眼の自称エルボラスへ首を傾げた。
「ふわ〜ん。ぴよん、おめめおっきした〜。しゅんさま〜、おはょ〜」
まるで服を剥ぎ取られた生娘の様な風体で部屋の隅に蹲りそそくさ着替えていた男へ、ベッドからパタパタ飛んできた綿毛が体当たりする。円らな瞳に涙を滲ませ、タラコ唇で欠伸を発てるそのブサ可愛らしさに親馬鹿は悶えた。
「おはよう俺のピヨン!今朝もルミナスに匹敵する可愛さだ俺の女神!ブチュ」
「しゅんさま〜、かっこい〜にょ」
綿毛を抱き締めモヘモヘ頬擦りした男は、パタパタ羽ばたく小さな翼に鼻血を垂らしながら、漸く気付いたのか辺りを見回した。バルコニードアを開いた女性は脱ぎ散らかした俊の寝間着を拾い上げ、せっせと部屋の片付けをしている。
「あらあら、ニャムルちゃんの抜け毛が。うふふ」
「うちの連れ、見ませんでしたかねィ?こう、ひょろっと縦長い騎士風情の無愛想男なんですが…」
「黒騎士様でしたら、明け方には起床なされて先程ラウンジでお見かけ致しましたよ」
「相変わらず年寄り並みに朝が早い奴め」
「もうお昼ですからお食事ではないでしょうか?あら、こっちは銀髪の長い抜け毛…」
「しゅんさま〜、ぴよん、トトおたべ〜。ぽんぽん、ぺこぺこ〜」
ぐー、と言う腹の虫を合唱させた一人と一匹は見つめあい、躊躇わず部屋を出る。生着替えを女性に見られてしまった気恥ずかしさは、この際忘却の彼方だ。
「あらあら、黒髪の抜け毛は騎士様のかしら?でも変ねぇ、
こんなに長いなんて…」
フィリスが誇る…いや、主に弟馬鹿である第二王子ベルハーツが公言して憚らない『フィリスの妖精』アルザーク=ヴィーゼンバーグが、シエスタに到着してから早五日が経過している。
「ふわー。もう昼前かァ」
初日は夜中に到着してしまった為に役場へは間に合わず、翌日は公休日だった為に丸一日無駄に費やした。
街の観光や食い道楽で退屈こそしなかったが、到着してから三日目に漸く役場へ足を運んだものの、役人と言うのはとにかく仕事が遅いらしい。すぐに身分証明書の再発行が出来るとは思っていなかったが、昨日一日何の音沙汰もなかったので若干心配にもなるものだ。
「今日こそ連絡来なかったら区役所に乗り込むぞ、畜生」
「のりこむにょ。ぴよん、くやくしょ、すき〜」
フィリスでは役場になど足を運んだ事はほぼない。いや、小遣い稼ぎの狩猟許可を昔一度取りに行った事はあるが、書類に書き込んだ俊の名前で役場が震撼し、額に青筋を発てたザナルが直々にやって来て半端ではなく怒られた事がある。
曰く、王位継承者が一人でのこのこ役場に行くな、らしい。役人の頂点に立つのが宰相ザナルである事を、当日十歳だった第一王子は全く知らなかったのだ。知ったからと言って『ああ、だから偉そうなのかザナルのじっちゃんは』ってなものだ。
そのザナルのじっちゃん以上に実の父親が偉い事にも気付かず、役場で正座させられた『闇のアルザーク』は迎えに来た当時九歳の日向から狩猟許可を貰い、意気揚々とバスティール樹海へ繰り出して行った。
以降、フィリスが誇る(かどうかは謎だが)アルザーク=ヴィーゼンバーグ第一王子は、エルボラスを筆頭に荒ぶる猛獣を華麗に倒しまくっては直々に売り捌き、着々と小銭を貯めている。
その金額は凄まじいのだが、何分自宅預金なので利子など付かない。自室四畳半の万年床である敷き布団の下の床のまだ下、無意味に広い床収納がアルザーク口座だ。たまに日向が覗き込んで金貨を放り込んでくれている事は勿論知らない。言うならベルハーツ利子が付いている。
「お、居た居た」
無駄に煌びやかな螺旋階段を跳ねる様に降りれば、小さなエントランスホールが広がり、入り口の脇にテラスへ続くラウンジがある。此処数日で増えた女性客が朝から黄色い声を響かせ、一人の男を遠巻きにしている様だ。
「きゃあっ、黒煎茶を一口啜られたわ!」
「ああ、今日も憂いを帯びた横顔がお素敵…!まるで絵物語の王子様のよう!」
冷めた目で耳を穿った俊に他意はない。夢見がちな貴婦人の囁きにしては丸聞こえ過ぎる声音に、目的の男を見やり鼻を鳴らす。
一杯の黒煎茶を前に長い足を組み、何やら物思いに更けている様に見える全身黒一色の鎧男…カイ=シェイドが噂の種である。
「騎士様、これは私の父がガヴァエラから直接仕入れて来たケールフォンのコートですの!とても貴重な材質で、夜間の冷え込みから身を守ってくれますわよ!」
「私は家は宝石商ですの!父上にお願いしてエテル鉱山直送のダークダイヤモンドをお持ちしましたわ!宵闇に輝く石は我が国神ルミナスを彷彿とさせる、月宵騎士団の証になるでしょう!」
「騎士様、父上にお願いして爵位を与えて差し上げますわ!」
「騎士様っ」
今朝も、これだ。
勇敢な貴婦人達の一部がそれぞれ貢ぎ物を差し出し、きゃあきゃあ騒いでいる。因みにカイは全く目を向けていない。始めから彼女らが目に入っていないかの様だ。
「黒煎茶一杯で格好付けやがって…羨まし…ごほんごほんっ」
「かい、みっけ〜」
「羨まし…いや、無礼な野郎だ。俺なら一人一人の手の甲に熱い口付けの一つや二つ!寧ろ貢がせてくれ!エルボラスの毛皮の一枚や二枚っ、ピヨン!愛してるっ」
「きゃ〜、しゅんさま〜、すき〜」
イチャイチャイチャイチャ、一人と一匹の茶番劇を振り返る人は居ない。虚しくなった俊が行き場のない怒りに燃えたその時、面倒臭げに目を上げた男と目が合った。
「漸く起きたか」
タラコ唇をぷるんと震わせた綿毛が俊の腕の中でパタパタ翼をはためかせる。
「かい〜、おはよ〜」
「ああ」
じっと紫の瞳に見つめられ、おまけの様に女性達の羨望の視線も浴びた男は痙き攣った。
「まぁ、またあの方よ…」
「何処の貴族でしょう?ラグナザードには珍しい銀髪の貴族なんて聞いた事が無いわ」
「ガヴァエラかベスタウォールか…。ルーク=フェイン陛下のお母様はベスタウォールの出身でしょう?」
「北方の方ならレイゼンプールかしら?でも騎士様を従えている大きな家柄なんてシエスタの貴族くらいよ」
こそこそ囁きあう貴婦人に、フィリス王子は半ば涙目だ。階級に煩い貴婦人の刺すような目が痛い。これならばまだトロイ=カッツィーオの嫌味を聞いている方が、
「カイちゃん、テメェはまた女の子侍らかして喜んでんのかこのムッツリエルボラスが」
「何の話だ」
「またこんなに貰ってよォ、礼くらい言っとけよ。俺が睨まれんだから」
シエスタ到達初日の深夜に立ち寄った魔導具店で、俊が思うに高級取りらしいカイが購入したのはリヒャルトから渡された耳飾りと同じような変身具だった。その後に貸し鉄翼車を借りてこの宿に腰を下ろしたのだ。
「ったく、この無愛想男の何処が良いんだ何処が。俺のが色男じゃねェか。なァ、ピヨン」
「かい〜、だっこ〜」
リヒャルトが通販で買ったものとは違い、最新式の魔導具は一度の充電で一週間は保つらしく、今や俊の髪は母エリシアと同じ銀、瞳は父や弟より深い蒼である。
金髪ではベルハーツと間違われてしまう危険がある為に銀髪にはしたのだが、瞳の色は体質からか綺麗な青が出ない。元来楽天的な性格の俊であるからにして、深く考える事もなく現状に満足していた。
「おら、足退かせ。長さ自慢か?喧嘩なら買うぞコラァ」
「向こうに座れば良いだろう」
「荷物が邪魔で座れねェんだよボケ、惚れるぞテメェ」
「トト〜、ぴよんのトト〜、おなかぺこぺこ〜」
カイの隣、二人掛けのソファーへ無理矢理割り込んだ俊がしゅばっと足を組み、相変わらず無表情なカイが差し出してくるメニューを偉そうに受け取った。
慣れてきたのか、此処数日で一等客室の二人連れは『主従』だと位置付けられた様だ。
「さァせェん、ロドキャットの茹で卵定食二つとォ、エルボラスの唐揚げとォ、パニ芽の炒め物詰めブルーパプリカとォ、」
「まだ食うのか」
「あん?お前も食ってねーんだろ?黒煎茶一杯で格好付けてたもんな」
「…」
「後はァ、ミルクと砂糖入り黒煎茶とー、」
「ぴよんのみゆく〜、ぶらっく〜」
すっかり常連風情の綿毛に、痙き攣りながらも和んだらしい従業員が頷いて厨房に消えていく。相変わらず凄まじいオーダーに周囲のひそひそが最高潮になった頃、耐えられなくなった俊がカイの腕を掴んだ。
「おい、何とかしろ」
「何の話だ」
「睨んでる睨んでる、お姉様方が睨んでんだよ!」
「捨て置け、煩わしい」
「テメェエエエ!!!」
モテる男の無関心さに羨ましさを通り越して怒り狂った俊がカイの胸を殴り、やはり胸当てのお陰で右手を負傷。然し見ていた貴婦人方には主人が部下を苛めている様に見えたのだろう。
大袈裟に騒ぎ出す者、俊を非難する者、睨み付けてくる者にこれ幸いとカイへ近付く者が見える。救いはカイだけが微動だにしていない所か。彼女らの騒がしさに全く気付かないかの如く、冷めた黒煎茶を優雅に啜っている。
「何なの、あの方!騎士様を殴るだなんてっ」
「酷いわ!」
「騎士様っ、どうぞうちに仕えて下さいませ!お給金なら弾みますわ!」
「こんな下劣な方など見限っておしまいっ」
何でこんなに睨まれるのか判らない俊が涙目で鼻を啜り、テーブルの上でカイの黒煎茶に顔を埋めていた綿毛が円らな瞳を上げる。
「けしょーおばけ、うっさ〜い。ぴよん、ばばあ、きらい〜」
「女とは元来騒がしい生き物だ。首を刎ねようが息絶えるまで騒ぐ」
「ばばあ、きらい。ばばあ、あっちいけー。ぶす〜」
円らな瞳の下、ぷりんぷりんのタラコ唇から放たれる辛辣な言葉に女性達が痙き攣り、相変わらず一人だけ別世界の様に冷静だったカイが漸くその紫の瞳を上げると、テリアは一気に沈黙した。
「雑音は退け。目障りに留まらず、耳障りだ」
ぐっと息を呑んだ皆がそそくさ居なくなり、引き替えに遅い朝食を兼ねた昼食が運ばれた。
テラスの向こう側から公立公園の騒めきが流れ込み、穏やかな午後を緩やかに運んでくる。
「…茹で卵、剥いてやろうか?」
「殊勝だな。何が望みだ」
「別に」
「何処かに行きたいんだろう。小遣いが必要か」
「だから違うっつってんだろ!もうイイ、早く食え!冷めるっ」
怒濤の勢いで定食に箸を向ける俊に、カイの黒煎茶を舐めて痺れたらしい綿毛が翼をはためかせた。
公立公園で弾き語りをしている吟遊詩人の歌声、大道芸人の一行に注がれる拍手、幸せげな人々の笑い声をバックミュージックに、今は。
「もきゅもきゅもきゅ。…後で、サーカス見に行くから付いてこい。今日は何処にも行かねぇんだろ?」
「判った」
「おやつは300ベネラまで、と言いたい所だけど、500ベネラまで許す」
「黒煎茶も買えんな」
まだ、穏やかな時を。